木曜日

カサブランカの喫茶店

 

 重い焦げ茶のドアを押して、宮迫は店の中に入っていった。


 すぐに来たモノトーンの制服のウェイターに、連れが先に来ていることを告げる。


 ひとつずつ壁で区切られた席を覗きながら奥へと行った。


 手前から三番目の席にその男は居た。

 分厚い革張りの手帳を大きな木の丸テーブルに広げ、煙草をくゆらせている。


 あつらえたものらしいスーツは大柄な身体にもぴったりと合っていた。


 精悍な横顔の、自分より少しだけ年上のその男に、迷いながらも呼びかける。


「なにかご用ですか?」


「なんだ、機嫌悪いな」

 顔を上げた冴木康介はちょっと笑って、そう言った。


 ちょうど吸い終えたらしい煙草を揉み消している。


 機嫌が悪いな、とこちらに向かって言いながらも、特にそれを気にする様子もない。


 相変わらずだなあ、と思いながら、彼からひとつ飛んだところの椅子を引いた。


「吸うか?」

 冴木は、こちらを見ずに煙草を向けてくる。


 いえ、と断ると、すぐに一本抜いて火をつけた。

 ほとんど無意識の行動のようだった。


 こういうところも相変わらず。

 未だにヘビースモーカーのようだ。


 個室の一番奥に腰掛けている冴木の頭の向こう。

 そこにある花瓶には、カサブランカが活けられ、店中に強い香りを振り撒いている。


 ――いつか、梨人くんが此処へ連れて来てくれたのは、冴木管理官の知識によるものだったのだろうか?


 落ち着いた柄の布張りの椅子に背を預けたとき、再び、ウェイターがやってきた。


 渡された厚地の緑のメニューを開かずに、そのまま返しながら、

「すみません、ダージリンを」

と言う。


 ウェイターが微笑んで去ったあとで、冴木の声がした。


「珈琲は飲まないのか」

 ひと段落したのか、もう手帳は閉じられていた。


 手帳だけを見ていて、まったく意識を向けていないように見えたのに、ちゃんとこちらの動向もチェックしていたようだ。


 普段の動きも、仕事のときと似てるな、と思う。


「今飲みたくないんです」


 あれから、何処へ行っても、梨湖の味を追うようになり、珈琲が喉を通らなくなっていた。


 そうか、と冴木は伏目がちに笑う。


 彼にも、いろいろと思うところはあるのだろう。

 あるのだろうが――。


 つい、入口の方を見てしまう。


 早く梨人くん来ないかな。


 前よりも冴木康介が苦手になったその原因がなんなのか。

 自分でもよくわかっていた。


「例の事件、どう思う?」

 ふいに冴木はそんなことを訊いてきた。


「模倣犯でしょう?」

と考える間もなく答える。


 あの事件はもうすぐ三ヵ月を迎え、捜査本部は縮小されるはずだった。


 犯人が捕らえられる様子もなく、事件が起こらなくなったので、冴木たち経歴を大事にするキャリアはみんなていのいいことをいって本部を離れていった。


 そう、自分たちは、もう犯人が捕まらないことを知っている――。


 なのに、再び、あの殺人ストリートで、惨殺死体が見つかったのだ。


 そのとき、扉のない個室の入り口を見て冴木が言った。


「遅かったな」


 制服を着た蒲沢梨人が立っていた。

 あれから忙しく、梨人とは、あまり顔を合わせていない。


 表に出ることが少ないのだろう。

 もともと男にしては色白だったのだが、今は更に白い。


 息を呑むくらいの綺麗な顔立ちは相変わらずだが。

 今の梨人は、消える直前の梨湖を思わせる、悟り切った目許をしていた。


「ちょっと忙しくて。

 ずっと休んでいたので、補講があるから」


 俺だったときほど忙しくはないだろうと、と冴木は笑って見せる。


 みんなの記憶が戻った九月。

 梨人は学校に戻ったが、体調が優れず休みがちだった。


 学校側は東大現役合格確実の梨人を留年させるわけにもいかず、彼一人のために補講を行っているようだ。


「冴木管理官、此処、隣の店の奥に車止めたんでいいんですよね?」


 梨人を迎えに行っていた矢島が、遅れてやってきた。

 相変わらず、色黒で、もっさりとしている。


 梨人は迷いなく珈琲を頼み、矢島はまた凝ったものを頼んでいた。

 梨人にとっては、此処の味は梨湖の父の味なのだろう。


 だが、自分にとっては、ただ梨湖の味に似て否なるものだ。

 口にすれば、ただ辛い。


「例の事件と似た事件が起こっているようですね」

 少し迷ったあと、梨人は冴木に敬語で話しかけた。


「そうなんだ。

 お陰で、縮小しかけた本部に呼び戻されそうで困っている」

と冴木は渋い顔をする。


「同じ犯人なはずはないです。

 本部に戻るのは、無駄じゃないですか?」


 だから、誰がそれを証明するよ、と冴木が眉をひそめたとき、


「でも私じゃないぞ」

とよく通る声がした。


 その声に、全員が振り向く。









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