我が家
懐かしい……。
自分の家の玄関を見回し、梨湖は思った。
いつもは、なんだこれ、と思っていた茄子の絵の色紙まで、妙に懐かしかった。
それらをじっと見ていると、梨人が横で、靴を脱ぎながら笑う。
「まあ、入れよ」
「……誰の家なんだよ、おい」
と言いながらも、今の自分の方がこの家にとっては『他人』なのだと思い知る。
「桜井が深沢に刺されたことを思い出しかけてるって?」
居間に入りながら梨湖は問うた。
「どうもそんな気がするんだ」
とソファに鞄を置きながら梨人が言う。
自分の家だというのに、つい、遠慮がちになる梨湖は、鞄を胸に抱え、向かいに座っていた。
「お前の力でなんとか抑えられないか?」
と梨人に問う。
「無理だな。
今の俺にはそこまでの力はない。
カナエさんの方の手を抜くわけにいかないし。
あれだって効いているのかどうか」
うーん、と膝に頬杖をついて梨湖は唸る。
「まあ、追求されても深沢の記憶にはないんだろう?
でも、はっきりと桜井が思い出してしまったら、単にしらばっくれてると思うだろうな」
お前が居たらな、と梨人は漏らす。
「お前の方が、その手の術に関しては長けている。
慣れてるしな」
確かに、いつも血をいただく度に、それを忘れるよう術をかけていたから、慣れてはいる。
だが――。
「なに言ってんだ。バッサリあれだけの人間の記憶を操っていたやつが」
「あれは、神護山から引っ張ってきていた力だ。
無理して自分に引き込んでいたから、もうしばらくは使えない」
確かにそうかもしれない。
神の力の前に、人の魂は疲弊する。
「それにあれは、冴木康介という強い器があってこそ、なせた
俺だけでは無理だ」
「そうだな、冴木の力の質は、私たちとはまた違うからな」
自分や梨人、そして宮迫に不可能なことでも、彼には可能かもしれない。
だが、その彼も今は梨湖にほとんどの力を引き渡してしまっている。
「ところで、児島家の生活はどうだ?」
「なに急に、親か先生みたいなこと訊いてんだ。
あの徹とかいう従兄弟がちょっと厄介なだけで、他はそう問題ないよ」
梨湖は、都と徹の話を推論を交えて話して聞かせた。
「……あいつ、そんな危ない奴だったのか」
「ほんとのとこはわかんないけどな。
やけに冴木との話を勧めたがると思ったら、どうもそれが原因らしいんだ。
徹とは引き離そうってことらしい」
「不祥事を押し隠して、さっさと結婚させたいんなら、それこそ、別に冴木じゃなくても、徹本人でいいんじゃないのか?」
「そうなんだけど。
やっぱ、都の母親にとっては、その過去の出来事がショッキング過ぎたんだろう。
『徹を遠ざたい』って気持ちが焼きついてんだよ。
元々は可愛がってた甥らしいから、余計にそういう感情が強いんだろ」
黙り込む梨人に、梨湖は問うた。
「どうかしたのか?」
「いや、カナエさんも俺を遠ざけようとするかなと思って」
「私たちは中学生じゃないぞ。
っていうか、別にお前、私に手を出してないじゃないか。
――いたっ!」
いきなりクッションを投げつけられて、梨湖は、なにすんだ、と投げ返す。
それを受け止め、睨む梨人にようやく気づいた。
あ、そうか。
そうだった。
別に忘れていたわけではないが、あのときの外見が冴木康介だったから、どうも、時折、混乱する。
「わ、忘れてたわけじゃないぞ、ほんとに」
慌てて言ったが、かえって弁解がましかった。
「お前はなんでも忘れるの得意だからな」
冴木と同じことを言う梨人に、あれはやっぱりそういう意味だったのかと今更ながらに思い知る。
だいたい、あれは何処までが梨人で、何処までが冴木だったのか。
そんなことを考えているうちに、梨人が横に座っていた。
梨湖の腰の側に手をつくと、頬に触れてくる。
「梨湖……」
とそのまま近づく顔を慌てて押し返した。
お前な~っ! と逃げるように立ち上がる。
「お前はほんっとに気にならないみたいだが、私は児島都なんだぞ!?
だいたい、今の状況だって、お前、女の家に別の女を連れ込んだ挙句に手を出そうとしてるんだ。
自分でもどうかと思わないかっ?」
梨人はこちらを見上げて言う。
「じゃあ、俺にどうしろって言うんだ」
じゃあ、どうしろって言うんだってなんだ? と思いながら、
「ともかくっ、指一本触んなっ!
私に触んなっ!
私は児島都だ。
そう思えっ」
と怒鳴りたいだけ怒鳴って出て行った。
外に出て、門を過ぎ、ブロック塀に手をつく。
滅多に逢えないのに、喧嘩しなくても、と自分で怒鳴っておいて、悔しく思った。
でも、あいつが児島都に触れるなんて、絶対に厭だ。
そのとき、ふっと霧の気配を感じた。
顔を上げると、そこには相変わらず、表情の読めない恵美子が立っていた。
こいつ今、ニンギョウの形を取らずにいきなり現れたな、と思う。
そして、気のせいか、影が薄い。
恵美子はこちらを見下ろし、淡々と呟くように言った。
『結局、貴方にもわからないのね』
「え?」
『貴方は私のことを、恋も知らないまま消えて可哀想だと思った。
でも、貴方も本当はわかってはいないように見える』
そうか。
あのとき病院で。
言葉には出さなかったが、恵美子に自分の感情は伝わっていたようだった。
「ごめん……」
『いいの、別に』
近くの塀越しに揺れる木々を見ながら、恵美子は呟く。
『私は私を憐れだなんて思ってない。
でも、そんなことのために、道を踏み外していく貴方たちが理解できないのは気になった。
それで、貴方の大事な人たちを観察してみたんだけど、別にときめかなかったわ』
「いや……あの、人には好みってものがあるんだよ、恵美子。
だから、私にとって大事な人間がお前にとってもそうなるとは限らないんだ。
でもな、お前にはちゃんと、お前に合った相手が――」
言いかけてやめる。
それを言ってどうなるというのだろう。
恵美子の魂は、永遠にあそこにある。
人の輪廻の輪からも外れて。
神護山に囚われた魂は、もう抜け出せることはないのだろうか?
『……おにいちゃんには言わないでね』
少し迷うような顔をしたあとで、ふいに恵美子は、そう言った。
『そんなこと試してみてるなんて恥ずかしいから』
うん、と梨湖は微笑む。
宮迫のことを語ったときだけ、恵美子の表情が人間らしく見えた。
人が人を大事に想うには、時間や感情の共有が必要だ。
今の恵美子は他の人間との間にそれを作り上げることは出来ないが、宮迫との間には、過去に培ったそれがある。
梨湖の脳裏に、あの広く薄暗い畳敷きの間で、物陰からじっと兄を見ていた恵美子の姿が思い浮かんだ。
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