意外な名前
「うち寄ってくか?」
帰り始めてすぐ、梨人はそんな風に訊いてきた。
「お前んち?」
「うちは今日、親が居る。
お前んちだ。
久しぶりに入ってみたくないか?」
「……そうだな」
俯きがちに梨湖は笑う。
「なんだか目がショボショボして来ました」
張り込み中の車の中で、宮迫たちは交代で資料を捲っていた。
板倉と関係のあった女性等を手分けして、監視しているのだ。
通り魔の可能性もあるが、やはり、板倉の人物像からして、怨恨の線が強いような気がする。
或いは―― 口封じ。
その場合、一番考えられるのは、児島都だ。
暴行事件に関しては、共犯者はみな死んでいることだし。
板倉の口を真っ先に塞ぎたいのは彼女だろう。
だが、彼女は今は梨湖の魂の片隅で眠っているはずだった。
そして、今、宮迫たちがチェックしているのは、会議で渡された資料ではない。
あの連続殺人事件の被害者たちの更に細かいプロフィール。
冴木に個人的に渡されたものだ。
それを今、ざっとわかっているだけの斉藤零児の資料と照らし合わせているのだ。
冴木は零児と被害女性たちの間に何か関係があるのではないかと考えているようだった。
ともかく、あらゆる可能性はチェックしておいた方がいい。
今わかっている分だけではなく、新たにわかってくるだろう零児の過去に、すぐさま対応出来るように、出来るだけ、そこに書かれていることを頭に入れておく努力を宮迫たちはした。
矢島が、うーんと伸びをしながら言う。
「あー、いっそ、板倉があの連続殺人事件の実行犯だと会議で言えたらなあ。
全員でこれ、調べられるのに」
表向きには、板倉とあの事件は関係ないことになっているので、どうしようもない。
「矢島さん、一応、外も見ててくださいよ」
あー、わかってるわかってる、と矢島は適当な返事をする。
見張っているのは、通りの向こうにある仏壇屋だった。
そのガラス張りの店の中で、ちらちら動く女性の影を見ながら矢島は呟く。
「あいつ、基本、ほっそりして奇麗系の女が好きなんだな。
蒲沢と好み似てんじゃないのか?」
「……それ、僕とも似てるってことになりません?」
無駄口を叩いていたとき、いきなり、窓を叩かれた。
慌てて今読んでいた資料を伏せる。
顔を覗けたのは松田だった。
「お疲れさん」
と缶コーヒーを二本差し入れてくれる。
だが、矢島は顔をしかめた。
「おい、お前が張ってんの、この辺じゃないだろ。どうした?」
「ええ、ちょっと。頼んで抜けてきました」
そう言う松田は物言いたげだった。
そういえば、松田は、板倉が殺された日もなんだか窺うようにこちらを見ていた。
宮迫、と松田は覚悟を決めたように呼びかけてくる。
「お前よく冴木管理官と小会議室に籠もってたよな、あの事件の頃」
「え― あ、はい」
「板倉憲明を知ってたか。
この事件の前から」
そう訊かれ、ぎくりとする。
松田は矢島の方も見て問うた。
「こそこそ矢島さんも一緒に調べてたでしょう。
『板倉憲明』という男について。
なんでですか?」
「なんでって――」
と宮迫は言葉を詰まらせる。
矢島は、ひとつ息をついて言った。
「
どうも、被害者の証言に寄ると、あの板倉って男が怪しいって話になって」
虚実取り混ぜて矢島が言い訳をする。
松田は窓に手をかけ、身を乗り出した。
「それ、今回の事件と関係があるかもしれないじゃないですか。
なんでオープンにしないんです?」
「できないんだよ。その被害者ってのが、前島管理官の知り合いで」
そう言うと、ああ……と松田は察したように呟いた。
前島の知り合いの、つまり、それなりの家の娘がそんな事件に遭遇したなんて、表沙汰にできる話ではないと気がついたのだ。
「そうですか。
でも、その事件の被害者が今回の犯人ってことはありませんか?」
「さあな。まあ、その件は、冴木とわしらが調べてるから。
それでなんだ?
わしらが当時こそこそ話してた『板倉憲明』って名前の男が殺されたから、わしらが特別に何か知ってると思って訊いてきたのか」
いえ、それが―― と彼は罰の悪そうな顔をする。
「実は、訊かれたんですよ。
警察の内部で、『板倉憲明』って男の名前が出たことはないかって」
「誰に?」
「昔、うちの妹と付き合ってた男にです。
……なんです? その顔。
うちの妹は、私とは年が離れてて、しかも可愛いんですよっ!」
大真面目に言い募る松田に、そんなこと聞いてねえ、と矢島は顔をしかめる。
「そんでお前、警察で板倉の名前が出たことがあるとその男とやらに言ったのか。
そもそも、なんでそいつは、そんなことを訊いてきたんだ?」
「それが、板倉とは、フィールドワークの途中で知り合ったらしくて。
なかなか面白い話をしてくれたから、今度の本にその男の話を使おうかと思うんだけど。
どうも、ちょっと犯罪絡みっぽい話もあったから。
ほら、本が出たあとで、いろいろあったら困るでしょう?
それで、もしかして、警察にマークされてるチンピラまがいの男だったら困るからって」
フィールドワークという言葉に、宮迫は、どきりとした。
その男はもしかして――
「そのフィールドワークって、もしかして、民俗学の聞き取り調査ですか?」
そう訊くと、松田は、何故わかったのかと言うように、目をしばたく。
「そう。
確か、あの現場近くのお堂にまつわる話を訊いたのが切っ掛けで板倉と話すようになったとか。
あの男、意外なお
矢島と顔を見合わせる。
「そっ、その男は、斉藤零児って名前では!?」
「お前の妹、あの通りで惨殺されてないか!?」
そんなはずないとわかっていて、矢島が畳みかけるように訊く。
「なんでですか! 生きてますよっ!
っていうか、なんで零児くんが板倉と知り合いだと、うちの妹が惨殺されないといけないんですかっ」
可愛い妹を話の上で殺されて、松田は叫ぶ。
あ、いや、と矢島は身を引き、咳払いをした。
しかし、どうやら、その男が斉藤零児だというのは、本当らしかった。
松田が不安げな顔をする。
「全然……関係ないと思うんですけど。
私がうっかり、板倉の名前が警察で出ていたことがあるようだと零児くんに教えた後に、板倉が殺されたのがなんだか気にかかって。
でも、零児くんに板倉を殺す理由はないはずだし」
あの子、いい子なんですよ、と松田は呟く。
「ちょっと、ぼーっとしてるけど。
身内に縁の薄い子でね。
家族はみんな、遠くに住んでたり、亡くなってたり。
一度、お姉さんって人と会ったことがあるけど、なんかちょっと、よそよそしい感じだったなあ。
そういうのも見てたから、私は零児くんには、もう、うちの家族に接するように接してたんですけど。
あの二人、別れちゃって。
どうも、零児くんのぼーっとしたとこが、うちの妹には物足りなかったみたいで」
「充分積極的に見えましたけど」
と梨湖に話しかけてきた零児を思い出し、文句を垂れる宮迫を、矢島が抑えて訊いた。
「その姉さんは惨殺されてないか?」
「だから、されてませんって。
確か、佐渡の方にお嫁に行かれてますよ。
もともと親の実家がそっちだとかって」
「佐渡……?」
「誰か居なかったか?」
矢島と二人が呟き、慌てて資料を捲る。
「矢島さん、なんですか、その資料」
答えない矢島に、じれた松田は、こっちに語気を荒くして訊いてくる。
「おい、宮迫」
「松田さんは黙っててください!」
慌てていたせいもあり、ぴしゃりと言ってしまう。
はい、と松田は黙り、矢島が、怖ええ、と苦笑いしていた。
「……あった!」
二人は同時にその資料を掴む。
「斉藤
母方の実家が佐渡だ」
「でも、この斉藤怜奈と、斉藤零児は確か関係なかったんですよね」
「そうだな」
親の実家が同じ佐渡というだけで、なんとなく狂喜してしまったのは、他になんのめぼしい情報もなかったからだろう。
二人は資料を掴んだまま、
だから、何……?
というように見つめ合った。
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