結界の崩壊
「梨湖?」
斜め後ろに居る梨人が呼びかけた。
宮迫と何事か打ち合わせながら帰っていく零児と、その後ろをついていく矢島。
何処かへ電話している冴木を見ながら、梨湖は夕暮れの通りで溜息を漏らす。
「私が最初に気づかなきゃいけなかったのにな」
「ん?」
「私しか板倉の言葉を聞いてなかったんだから、私が真っ先に気づかなきゃいけなかったのに」
「無理だろ。
警察だって、あの二人の関係は絶えてるものだと思ってた」
「……夕べ、板倉に土下座されてようやくわかった。
あいつ、自分のためじゃなく、人のために頼んでたんだ。
助けてやってくれてって」
助ケテ……キミ
板倉が誰かのために、自分に懇願していると気づいたとき、微かに聞こえていた『キミ』という音声が気になった。
「冴木たちは、大量の資料を持ってるから逆に、その女に注意を払えなかったんだ」
以前からぎくしゃくしていて、既に付き合いの途絶えて久しい女のことなど。
「私は今、板倉が付き合ってる女のことなんか知らない。
あのとき板倉が付き合ってたマルヤマ アキミしか知らないからな。
だから、すぐに思い当たったんだ」
アキミヲ 助ケテ――。
そう板倉は言っていたのだ。
はっきり聞きとれなかったのは、恐らく、彼女こそが、結界の主だからだ。
何故、丸山秋実は板倉のために結界を張り、何故、板倉は彼女を助けろと自分に望むのか。
そして、板倉が刺殺されたのは何故なのか。
それらは、果たして、本当に、今回の事件と関係あるのだろうか。
前回のもうひとつの殺人との関連は――?
問題なのは、丸山秋実が、今日、会社のお昼休みに出かけたまま戻ってきていないということだろう。
「秋実を助けて―― か」
住宅街に落ちる夕陽を見つめ、梨湖は溜息を漏らした。
梨人が問う。
「丸山秋実は、なんで今日姿を消したんだろうな?」
「……火曜日だから」
ぽそりと答えた。
「あー、もう、他にもいろいろ問題あるしなー。
困ったなあ」
と梨湖はわざと大きく伸びをして見せる。
「桜井は今日は学校休んでるのか?」
と問うと、梨人は、
「いや……来てた」
と言った。
孝子の話になると、梨人の口も重くなる。
あの日、意識を取り戻した孝子は、何も覚えてはいなかった。
それでも、いつも通り陽気に振舞って見せるのが、痛々しかった。
『あらー、私、こんなところで何してるのかしら。
あれっ?
貴方、確か、今西女学院の』
と梨湖を指差し、驚いた顔をする。
いつも物陰から梨人を見ていた都に、やはり、気づいていたようだった。
梨人をちらと見て、
『蒲沢くんと仲良しになったの?』
と笑う。
人の恋路の心配なんかしてる場合じゃないだろうっ、桜井っ!
梨湖はなんだか泣きたくなった。
いっそ、全部正気のときにぶちまけてくれれば、対処のしようもあるのに。
梨湖は小さく呟く。
「一人助けりゃ、一人助からないか」
「なんの話だ?」
「いや……」
考えながらそう答えると、梨人は言った。
「そういや、恵美子が言ってたぞ。
俺たちは何かを得る代わりに何かを失う。
それは変えようのない未来なんだと」
「不吉なこと言うなよ。
でもそうか、やっぱり、お前の前にも現れてたんだな、恵美子」
「ありゃ一体、なんだったんだ?」
と問う梨人に、
「うん……気にしないでやってくれ」
女同士の秘密だ、というと不可解そうな顔をした。
離れた塀に寄りかかり、ぼんやり地蔵を見ている徹を振り返る。
「お前、どうする?」
どうするって、と間を置き、こちらを見た。
「付いてくよ。
言ったろ?
僕には見届ける権利がある。
君が何者だろうと、その身体は児島都のものなんだから」
真実を話したとき、
都ちゃんならやるかもね――
そう徹はあっさり言ってのけたが、その心中は、やはり複雑だろうと思われた。
「初恋の彼女が連続殺人犯ってのは、しんどいだろうなあ」
徹には聞こえないよう、そう呟くと、梨人は、
「死んだり生きたり死んだり生きたりされるのも、なかなか切ないぞ……」
と愚痴ともなんともつかないことを溢した。
あれ? 地震?
カタカタ、と妙な音がする。
富樫は手にしていたバインダーから目を上げ、辺りを見回した。
白い部屋の中、揺れているのは、遺体を安置しているロッカーだった。
他は揺れていないので、地震ではない。
かっ、かっかっかっ、勘弁してくださいっ。
誰にともなくそう願う。
こんな場所だ、いろいろその手の噂があるのだが、何も見たこともないし、聞いたこともないのが富樫の自慢だったのに。
霧が――。
白い霧が何処からともなく滑り込んで来た。
「う……」
ドライアイスドライアイスドライアイス
テレビ局でバイトをしたことのある富樫は、そう心の中で繰り返す。
番組中使われるあの手の霧は、大抵、ドライアイスだからだ。
その霧がロッカーを取り巻き始め、揺れが激しくなってきた。
「せっ、せっ、せんぱーいっ!!」
たまらず、大きな声で近くで仕事しているはずの山野を呼ぶ。
その霧が端の下の方に集まり始めた。
「どうした!?」
飛び込んできた山野も次の瞬間、悲鳴を上げる。
端の下から二番目のロッカーがいきなり開き、そこから女の子の形をしたニンギョウが滑り落ちてきたからだ。
霧を透かす、ガラスのニンギョウ。
「ぎゃああああああっ!!」
二人は抱き合い、後ずさる。
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