保健室

 

「桜井!」

 いきなりそう呼ばれた孝子は、チャンネルを変えようとしていた手を、びくりと震わす。


「――先生。桜井先生。

 すみません。そのままにしといてくれますか」

と梨人は申し訳のように後から付け加えた。


 言うだけ言うと、彼はもう、今うっかり自分を呼び捨てたことなど忘れたかのように、デスクの前に立ち、小型テレビに見入っている。


 ふう、と溜息混じりに、リモコンを置いた孝子は、保健室の中央にあるソファに腰掛けた。


 向かいの椅子に座っている連がこちらを見ているのに気づく。


「……なによ」

「いえいえ」


「あんたたちが教師を陰で呼び捨てにしてることくらい知ってるわよ」


 わざと膨れて、そう言って見せたが、

「今、ドキッとしたのは、それでですか?」

と連は意味深に笑って訊く。


「……何が言いたいのかしら?」

と立ち上がり、連の後ろの棚に向かって歩いていく。


 擦れ違い様、その耳を引っ張った。

「いてて……」


「鏑木さんが山田くんはいい人だって言ってたけど。

 あんた、あの子の前だけでじゃないの?」


「うそっ。

 マジで!? 鏑木さんが!?」


 身を乗り出した連の横に座っていた女の子が、それを見て笑っている。


 今は朝礼の時間なのだが、体調の悪い者は、予め参加しないで此処に留まるのが通例となっていた。


 もっとも、大半は常連で、ただのサボりなのだが――。


 みんな、ソファでしゃべっていたり、ベッドに寝ていたり座っていたり、思い思いに過ごしていた。


 梨人は真剣にテレビを見ていたが、

「――板倉が死んだ?」

と小さく呟く。


「なんだ、梨人。

 そのニュース知らなかったのか?」


 生徒からの修学旅行のお土産である白いトリのぬいぐるみを、手で弄びながら連が言う。


「今朝、凄かったろ。

 公園のとこ」


「ああ……俺は、朝、病院に行ってから、タクシーで来たから」


 長期欠席のあとも梨人はまだ、休みがちだった。

 病院からの報告では、特に何処が悪いというわけでもないようなのだが。


 ともかく、身体全体が常に疲労しているような状態なのだそうだ。


 鏑木さんも入れ違いに入院しちゃったしなあ。

 勉強のし過ぎなのかな、二人とも。


 それにしても―― と、まだテレビを凝視している梨人の端正な横顔を見る。


 あー、くそ。

 やっぱり、いい男だわ。


 せめて、あと三歳くらい年が上だったら、犯罪じゃなかったのに。


 いやいや、生徒でさえなかったら……などと不遜なことを考えていた。


 入学早々、梨人は全女生徒の注目を一身に集めた。


 それはその容姿や成績のせいだけではない。


 入学式の最中に、いつもの貧血を起こして倒れた梨湖を、梨人が抱きかかえて此処まで連れてきたからだ。


 まあ、言ってみれば、梨湖あっての梨人の人気なわけだが。


 ――まったく照れもせずに、ああいう真似をするのが恐ろしいところよね。


 同い年くらいだったらなあ、とも思うけど。


 もし、クラスメイトだったりしたら、逆に口もきけないかもな、と乙女のような気持ちで、ついそんなことまで考えてしまう。


 それにしても……


 さっき、彼がサクライと呼んだとき、一瞬、あの冴木康介に呼ばれた気がした。


 あの人に、そんな風に呼ばれたことなどないはずなのに、何故だろう?


 そう思ったとき、梨人と目が合った。


 慌てて視線を逸らした孝子は、怠惰に背を預けていた棚から起き上がる。


「さーあ、あんたたち。そろそろ朝礼終わるわよ。

 教室戻んなさい」

と手を叩いた。


 ちぇっ、と連が呟き、ばらばらと皆立ち上がったところで、ちょうどチャイムが鳴り始めた。





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