「ところで、事件の件だが、この通り梨湖様は知らんと言っている。


 まあ、模倣犯だろうとは思うんだが。

 マスコミに発表していること以外にも、微妙に前と違うところがあるしな」


 そう言う冴木に、

「違うとこってなんだよ?」

と梨湖がテーブルに肘を置き、身を乗り出す。


「守秘義務だ」

と冴木はその額を指で押し返した。


 自分はもちろん、それがなんなのか知っていた。


 ――梨湖ちゃんにまで黙っていることはないと思うんだけど。

 冴木管理官には何か考えがあるのだろうか?


「ま、面倒くせえから、どうせなら、全部そいつが罪を引っ被って死んでくれたらいいんだけどな」


 おいおい、と梨湖が冴木を咎める。


「どうせ、人を滅多打ちにして殺すような奴だぞ。ろくなもんじゃねえ」


「……都が聞いてるかもしれないだろ。ますます出てこなくなるぞ」


 出てこなくていいじゃないか、と冴木は珈琲を飲み干し、梨湖は不満げに頬杖をついていた。


 やはり、彼女は変わったと思う。

 他人の身体に入ったからではない。


 かつて梨人に見せていた気の置けなさ、それが今は冴木にも向かっているような気がしたのだ。


 自分にもそんなところは見せてくれなかったのに、と淋しく思う。


 いつも自分たちの間には微妙な緊張感があった。


 それこそが恋愛関係であった証拠だと言えなくもないのだが――。


「それより俺は板倉を放置していることの方が気になるんだが……」

と梨人が呟く。


 板倉憲明に関しては、結局、暴行事件の被害者が誰一人名乗りを上げなかったので、どうにも手出し出来ない状態だった。


「路駐でもしやがったら、別件で引っ張るんだが。あいつ、車にも乗りやがらねえしな」

と漏らす矢島に、梨湖が苦笑いする。


 板倉には事件の記憶はまったく残っていないのだろうか?


 人は――


 人を殺しても、記憶さえなければ、それで済むのだろうか?


 もっとも、それは、深沢綾の傷害事件に関しても言えてしまうことなので、あまり追求したい話ではないのだが。


「でもあれだな」


 何故か宮迫の斜め上の方を見ながら、頬杖ついたままの梨湖が呟く。


「模倣犯にしても、なんにしても。なんだって今頃になって――」


 どうしても気になったので、宮迫は、その話を遮るように問うた。


「……ねえ、梨湖ちゃん、何見てんの?」


 梨湖が自分の後ろを指差し、

「お前の後ろに……」

と言う。


 恵美子!? と思って振り向いたが、


「季節ハズレの蚊が」

と言って笑った。


 ぺち、と腰を浮かせた矢島が叩いて取ってくれる。


 掌を広げ、

「お、誰か吸われてんぞ」

と言っていた。


「もう~、梨湖ちゃん、紛らわしいこと言わないでよっ」


 笑っている梨湖に、

「その、君、都の身体に入っても、そういうもの、見えてるの?」

と訊いた。


「見えるぞ。

 だって、都自身の力も、全部石に吸収されたわけじゃないしな。


 あとやっぱり、この手の力は、魂自体に依存している部分が大きいようだ」


 おしぼりで掌を拭きながら、矢島が問う。


「そんで嬢ちゃん、その身体に入ってるうちは、血飲まなくていいのか」


「そりゃー、欠損してたのは、私の身体で、魂じゃないからな」


 っていうか、潰された蚊を見ながら言うなよ、と梨湖は眉をひそめていた。




「おーい、宮迫ー?」

 話し合いのあと、考えごとをしていると、梨湖が顔の前で手を振る。


「は? え? なに?」

「移動しようって」


 もう全員が立ち上がっていた。

 梨湖はベレー帽を被っている。


「その制服」

「ん?」


 似合うね、と、まだ座ったまま見上げて言う。

 梨湖は照れたように足元の鞄を取る。


「そうだな。

 都はこれ、似合うよな」


「いや、君が。

 君が入ってると特に」


「おーい、宮迫がまたなんか臭いこと言ってんぞー」


 先に出かけていた冴木が、更に先を行っていた梨人たちに向かって声を上げる。


 梨人が笑うのが、濃い緑の観葉植物の向こうに見えた。


「確かにこの制服可愛いと思ってたんだよ」


 外に出た梨湖が横を歩きながら言う。


「じゃあなんで、行かなかったの?」

「女子高じゃ梨人が入れないだろ」


 なるほど……。


 梨湖の目は矢島たちと前を歩いている梨人を見ていた。


 彼自身を見ているのか。

 もはや、自分のものではない学校の制服を見て懐かしんでいるのか。


「梨湖ちゃん」

「……あんまり外で梨湖って呼ぶなよ」


「でも君は梨湖ちゃんだよ」


 そっとその手を握る。


 梨湖は一瞬逃げようとした。

 気まずそうな顔をする。


 嫌だったが、梨湖のために離した。

 彼女を困らせるのは本意ではない。


 現実は、めでたしめでたしで終わりはしない。


 あのときは、これで最後だと、彼女の、そして梨人のために手を離した。


 だけど、別人になりはしたが、自分の愛した梨湖の魂はまだ此処に居る。


 それを望んでいいものなのか、どうなのか――。


 彼女はまたすぐに消えてしまうかもしれない。


 万が一、自分を受け入れてくれたとしても、辛くなるだけだとわかっているのに。


 そこに居ると知っているから、手を伸ばさずにはいられない。


「おーい、梨湖様。

 あんまり離れんなよ、物騒だから」


 いつの間にか、前の三人と距離が空いていたらしく、冴木が振り返り言ってくる。


「物騒ってなんですか。

 僕が物騒なんですか」


 つい突っ掛かるように言ってしまい、

「酔っぱらいも多いのに、お前みたいな優男じゃ頼りないっつってんだ」

と言い返される。


 距離はあっても、よく通る冴木の声は耳に響いた。


 マイクのない本部でも、冴木の指示はいつも的確でよく聞こえる。


「うるさいから、急ぐか」

と梨湖が笑った。


 さっき手を繋ごうとして気まずくなったことなど、すっかり頭にないような笑みだった。


 こだわらないのが君のいいところだけど、そのせいで、見逃してることもたくさんあると思うよ。


 ちょっぴり恨みがましくそう思った。


「でもよくこんな遅くに出てこれたね。

 児島の家は煩いんだろう?」


「今日何曜日だと思ってんだ」


 木曜日。

 そうか。


「都の塾の日だ」


 そして、梨湖と梨人の……。


「都があの時間まで動けなかったのは、やっぱり、塾のせいだったのかな」


「さあ、今となってはわからないね。

 それにしても、塾ももう終わってる時間だろう?」

と時計を見ると、


「ああ。今日は帰り、冴木と会うから少し遅くなると言ってある」

と言う。


「それでオッケーなの?」

「あいつ、都の親の前では紳士づらしてるからな」


 親の前じゃなかったらどうなんだろうと、一瞬、思ってしまった―――。







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