ぼんやりとした視界の中。

 夕暮れの道に、その男は立っていた。


 辺りをせわしなく人が行き交っている。


 男は周りの喧騒に逆らうように、ひとり塀の前に立ち尽くし、涙を落としていた。


 静かなその姿に、胸が詰まる感じがする。


 だけど――


 そう思っているのは、誰だろう?

と思ったとき、誰かに呼びかけられた。


「児島さん、児島都さん」


 児島……?

 ああ、私のことか。


 女教師の呼ぶ声に、ふっ、と梨湖は目を覚ました。


 机の向こう、目の前にあったのは、綾などとは違う、色気とは掛け離れた厳しい感じを与える地味な柄のタイトスカート。


 その教師は、まだ若く、そう悪くない顔立ちなのだが、目立たない服装と、険の強い物言いで、生徒たちからは煙たがられていた。


「児島さん、余裕ね。テスト中よ」

 からかいを含まない抑揚のない声で、彼女は言う。


「あっ、すみません。あんまり気持ちよかったから」


 そう苦笑いする梨湖に、その教師は違和感を覚えたようだった。


「貴方―― 入院して、丸くなったわね」


 その言葉から、以前の都がどのように対応していたのか、想像できた。


「先生、人間一度、死線を彷徨さまようと、変わるもんなんですよ。

 いろんなものが見えて来ちゃって」


 梨湖自身、何度も死んだり死にかけたりしている。


 そうすると、日常の些細なことなど、どうでもよくなってくるのだ。


 あっけらかんとそう答えた梨湖に、彼女は最初の表情からは想像もつかない顔で、ぷっ、と笑った。


 ちら、と梨湖の手許を見て、

「もう出来てるみたいだけど。

 一応、起きててね」

と、やわらかく言い置いて教壇に戻っていく。


 はい、と素直に頷きながら、梨湖は、さっきの夢を思い出していた。



 

 夕刻、塀に寄りかかり、ぼんやり空を見上げていた梨湖は、通りの向こうからやってくる人影に気がついた。


 あいっかわらず気配の薄い奴だなあと思いながら、塀から背を浮かす。


 向こうもこちらに気づいたらしく、笑いかけてきた。


「やあ、君は夕暮れどきになると現れるんだね」


「妖怪みたいでしょ?」

と言うと零児は笑う。


 夕暮れ時は、逢魔ヶ時。


「魑魅魍魎にしちゃ、ちょっと可愛すぎるけど。

 どうしたの?」


 上がる? と言う零児に、

「いえ、いいです。

 ちょっとお訊きしたいことがあって」

 梨湖は自分の顔を指差し問うた。


「私、以前、貴方と会ったことなかったですか?」


 唐突な問いに、零児は目をしばたく。


 梨湖が指差した『都の顔』を見、いや……と考えながら呟く。


「この間以前にってことだよね?

 ないと思うけど?」


 そうですか、と梨湖は溜息を洩らした。


 うたた寝している間に見えた、泣いている男の姿。

 確かに斉藤零児だった。


 そして、あれは夢というより、誰かの記憶。


 自分のものでない以上、都のものではないかと思ったのだが。


 ならば、最初に零児と会ったとき、どきりとしたのも自分ではなく、都だったのかもしれないではないか。


 だが、零児は都を知らないと言う。


 それでは、あの記憶は一体?


 う~ん、と名探偵よろしく顎に親指をやり、唸っていると、零児は笑い、

「やっぱ上がっていきなよ」

と言った。





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