わたしに向けられていた二重瞼の中にある瞳が、スーッと流れるように右へ動きまたすぐに戻ってくる。



 整えられた細い眉がグッと中央に寄って眉間に縦皺を作り、少しだけ眉尻の下がったその表情が形容しがたい色気を醸し出す。



“美しい”というよりは、“美麗”という表現が似合うその男の、形のいい唇がゆっくりと動く。



「だから、誰なんだって」


 声ははっきりと聞こえ、話し掛けられているというのが分かっているのに、わたしは何も言えなかった。



 実際には言葉を紡げないだけじゃなく、指の一本も動かせず、自分で気付かない内に息さえ止めていた。



 分かりやすく言えばハッと驚いた状態が長く続くという感じで、わたしは呆然とその姿を見つめる――というよりは眺めていた。



 何故だかこの男――アスマさん――から目が逸らせない。



 逸らしたくないのかもしれない。



 こんなに綺麗な男性を見た事がなくて、ずっと眺めていたいと思う。



 これは――何?



 人並み外れたその容姿に、まるで夢の中にでもいるような感覚が襲ってきて、それと同時にどうしてこんな人が姉に声を掛けたのかと不思議に思った。



 これ程の容姿をしてるなら、別に姉じゃなくてもいいと思う。



 むしろ、もっともっと綺麗な女の人に声を掛け、持ち帰る事は可能なはずなのに一体どうして姉なんだと、そこに何かしらの裏があるんじゃないかとすら疑ってしまう。



 身内のわたしが言うのも何だけど、誰でもいいと思っていたとしても姉を選ぶ意味が分からない。



 姉より綺麗な人はこの世にごまんといるのに、一体どうして――。



「あ、あのね、アスマ! この人、イチコさん!」


 ハッ――と。



 隣から聞こえたスズさんの声に、今度こそ本当に我に返った。



 それと同時にアスマさんの目が再び右へと移動して、



「“イチコさん”?」


 スズさんの言葉を反復する低い声が辺りに響き、妙な反響で戻ってきた音がゆっくりと闇に消えていく。



「な、何か、アスマに話があるって……」


「話? 話って何だよ」


「それは――本人から聞いて」


 そう言った後スズさんは、「あたしから言える事じゃないから」と小さく言葉を吐く。



 そしてチラリと横目でわたしを見て、口許に微かに笑みを作った。



 それが「どうぞ」という意味だという事は分かった。



 だからわたしはここに来た目的を果たすんだと息を吸い込み、「あの」と言い掛けて言葉を呑み込んだ。



 アスマさんの目がいびかしげにスズさんを見据えてる。



 こちらに一切目もくれず、スズさんをジッと見据え逸らさない。



 その表情からしてアスマさんが怒っているんだと確信した。



 カフェでスズさんが言っていた通り、本当に勝手にわたしを連れてきた所為で、アスマさんの機嫌が悪くなったんだと理解した。



 でもスズさんはそれに気付く様子はなく、スズさんの目はわたしに向けられてる。



 だからだと思う。



 いつアスマさんが怒鳴りだすかと焦ったからだと思う。



「姉が妊娠しました!」


 わたしはまずそれのみを、早口で告げた。



 反響した声が闇に吸い込まれ、シンと一瞬の静寂が辺りを包む。



 いつの間にか牛蛙の鳴き声も聞こえなくなっていて、そこには3人の呼吸音しかなかった。



 わたしは誰の顔も見ていなかった。



 わたしは決して悪くないのに、何故か逃げるように足元に視線を落としていた所為で、アスマさんがどんな表情をしているのかを見る事は出来なかった。



 妙な空気が流れる。



 誰も、何も言わない。



 数秒の沈黙を経て一番に口を開いたのは、



「ふーん」


 アスマさんだった。



 まるで他人事のような口振り。



「だから?」という言葉は口にしなくても、そう言いたいのが伝わってくる物言い。



 やっぱりこの人はそういう人なんだと――悪魔のような冷酷な人間なんだと――思い、顔を上げたわたしは、また体を強張らせた。



 スズさんをジッと見据えていたその漆黒の目が、今度はわたしを見据えてる。



 何故かその目に見つめられただけで、身動き出来なくなる。



「で、話って?」


 両手をジーパンのポケットに突っ込み、ふてぶてしい態度で、アスマさんがわたしを見下ろし問い掛けてくる。



 その綺麗すぎる容姿だけでも相当な圧力を感じるのに、長身の身体からだで見下ろされると更に大きな威圧感を感じた。



 両親や先生から感じるそれとは違う。



 怒られるとかいう怖さからの威圧感じゃなくて、空気が圧迫されたような息苦しさに似た威圧感。



 こんなもの今まで感じた事がない。



「あんたの姉貴が妊娠したからって何だよ」


 その冷たい目がわたしから離れない。



 この男の雰囲気に呑み込まれそうになる。



 背筋に冷たい物が流れた気がした。



 負ける訳にはいかないのに。



 姉と話し合ってもらわなきゃ困るのに。



 姉がどうしようとしているかを、伝えなきゃいけないのに。



 そう思ってはいても、何故かわたしは口を開く事が出来ず――。



「……アスマの子だって」


 わたしの気持ちを察したのか、不意にスズさんが小さく口を挟んだ。



 一瞬。



 目の前にいるアスマさんの目が見開かれた。



 でもすぐに眉間に縦皺を刻み、チラリとスズさんの方へと目を向ける。



 そして。



「ああ、なるほどな。そういう事か」


 何かを納得したかのように呟いた。



「悪いな。俺の子だとは思ってなかった」


 慌てる様子も焦る様子もなく、口角を少し上げ口許に笑みを作ったままそう言ったアスマさんは、わたしを見つめ「あんたの姉貴って誰?」と、当然のように聞いてくる。



「あの、しゃ、写真があります」


 最初からとぼけられるだろうと予想し、写真を持ってきていたわたしは、口籠りながら鞄に手を入れ写真を取り出した。



「な、名前は“エツコ”です」


 取り出した写真を差し出しながら、姉の名前を口にすると、



「エツコなあ……」


 アスマさんはその名を思い出そうとするように呟き、わたしの手から写真を取る。



「あの、あ、姉は子供を産むつもりです!」


「ほう」


「ひとりで産んで育てると言ってます!」


「へえ」


「で、でもそれは間違ってると思うんです! アスマさんがどういうつもりなのか分からないですけど、それでもきちんと話し合って下さい!」


「…………」


「こ、こういうのはお互いの責任で、どちらか一方がどうという問題では――」


「ああ、そうだな」


 わたしの言葉を遮り、写真から目を離したアスマさんは、親指と人差し指で挟んだその写真をヒラヒラと軽く振ると、「え?」と聞き返したわたしに色気たっぷりの笑みを向け、



「あんたの言う通りだ。あんたの姉貴がマジで俺の子を妊娠したんなら、ちゃんと責任を取る」


 そうのたまった。



 再び「え?」という声がした。



 でもそれはわたしが出した声じゃなかった。



 確かに意外なアスマさんの応えに「え?」と声が出そうになったけど、わたしよりも先にそれを口にした人間が隣にいる。



 空耳かと思う程の余りにも小さい「え?」という声に、わたし以外――アスマさんは――反応しなかった。



 思わず目を向けてしまう。



 スズさんがどんな表情をしてるのか気になってしまう。



 さっきまで笑っていたくせに――こちら側からすれば大問題を抱えているのに、まるで他人事だという態度をつらぬき通したスズさんがどんな表情をしているのか凄く気になった。



 やっぱり最初からアスマさんが責任逃れをすると“期待”していたんだろうと思うと、腹が立ってその顔を――ショックを受けているであろう顔を――見ずにはいられなかった。



――でも。



 向けた視線の先でスズさんは、さっきまでと何ら変わらない表情で、ただジッとアスマさんの顔を見上げているだけだった。



 だから本当に空耳だったのかと思った。



 もしかしたら自分では気付かない内に、自分の口から「え?」という言葉が出てしまったのかとすら思った。



 無反応のアスマさんと変わらないスズさんを見る限り、やっぱりそれをスズさんが言ったという可能性は低い。



 ただのわたしの願望だったんだろうか。



 ショックを受けて欲しいと思ったんだろうか。



 こんなにも必死になってる自分とは対照的なスズさんに対して、何らかの妬みのようなものを抱いていたんだろうか。



 自己嫌悪に陥りながら、とにかく“その気”になってくれてる内に話を先に進めようとアスマさんに向き直り、



「それは……責任というのはどういう事なんでしょうか?」


 そう問い掛けながらこの人が、責任を取って姉と結婚する事を――義理の兄になるのかもしれないという事を――想像ですら考えられなかった。



 それはきっと、“そういう”事ではないだろうって思ってるからだと思う。



“責任”というのにも色々とある。



 お金を出すから堕ろせという可能性もある。



 ううん。その可能性が一番高い。



――だけど。



「さあな。相手がどうして欲しいかによる。結婚してくれって言うならするし、認知しろって言うならする」


 意外にもこの非道だと言われる男は、“そういう”事に関してはちゃんとした考えを持っているらしく、はっきりとそう口にして――やっぱり――笑った。



「結婚……ですか?」


「ああ」


「姉と結婚して頂けるんですか?」


「ああ」


「ほ、本当に?」


「ああ」


「そ、その場しのぎで言ってるんじゃなくてですか?」


「ああ」


「ほ、本当に本当なんですね!?」


「しつけえな」


「じゃ、じゃあ姉と――」


ただし」


「――但し……?」


「それは俺の子だったら、の話だ」


「……はい?」


「あんたの姉貴は俺の子をはらんだ訳じゃねえ」


「は?」


「悪いが俺はこんな女、見た事も抱いた事もねえよ」


 そう言って、目の前にいる妖艶な男は、悪魔を連想させるほどの冷たい笑みを浮かべ、手に持っていた写真をこちらに差し出した。

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