10


 どうして予備校を休んでいた事をお父さんにバレたのか、その理由は姉が教えてくれた。



 予備校から電話があったらしい。



 最近休みがちだと電話してきたらしい。



 どうしてそんなお節介な事をするのかと、少し予備校に腹が立った。



 行っても行かなくてもお金は入るんだからそれでいいじゃないかと、思うわたしは間違ってるんだろうか。



 お父さんの機嫌の悪さはわたしを一度叱った事くらいではおさまらず、翌朝の朝食の席でもまだブツブツとわたしに文句を言っていた。



 幾度か出てくる「出来損ない」という言葉を、まるで他人事のように聞き流せたのは、感情を抑え込みながらも一応は泣いたお陰だと思う。



 それでもとても憂鬱だった。



 一日中ずっと憂鬱だった。



 沈んだ気持ちは浮上せず、ずっと溜息ばかりを吐いていた。



 学校が終わってからの足取りも重く、何となく何もかもがどうでもいいような気持ちにさえなりながら昇降口から校門に向かい――“それ”を見つけた。



 わたしの時もあんな感じだったのかと思う。



 そういえばわたしもあの時、あんな風に校門から出てくる生徒にチラチラと好奇の目を向けられていた。



 異なる世界の人間が異なる世界にいるというのは、こうも目立つ事なのかと知って慌てて駆け出した。



「スズさん!」


 校門のど真ん中ですれ違う生徒の顔をあちこちと見回すスズさんの名を呼び、駆け寄るわたしに気付いたスズさんの動きが止まる。



「イチコさん!」


 もうそんなに距離はないのに、大きく空に手をかかげブンブンと振るスズさんを、行き過ぎる生徒が怪訝そうに見ている。



 決してわたしがそういう風に見られている訳じゃないのに、物凄く恥ずかしいと思ってしまった。



「な、何をしてるんですか!?」


「聞き忘れてた事があってさ!?」


 目の前で足を止めたわたしに満面の笑みを浮かべ、「いしし」と笑ったスズさんはとても機嫌がいいらしく、



「あたし、イチコさんの連絡先聞き忘れてたんだよね。連絡先教えてもらっていいかなあ?」


 校門のど真ん中で鞄に手を入れる。



 どうしてこんな場所なんだろうと思う。



 もう少し端っこで待っててもいいんじゃないかと思う。



 異界の住人は目立ちたいからこういう事をするんだろうかと、理解出来ない行動に困惑するわたしの視線の先で、スズさんはゴソゴソと鞄の中をあさり続ける。



「……あの」


「うん、ちょっと待って。スマホが見当たらない」


「…………」


「ちょっと待ってね!? あれ? どこだ?」


「…………」


「絶対入れたのに! 学校出る時に確認したんだって!」


「…………」


「ちょ、ちょっと待ってね!? あ、あった! って、違う! これファンデーションだ!」


「……スズさん」


「待って! 待ってってば!」


「紙に書くので帰ってから探されてはどうでしょう」


 チラッと見てみたスズさんの鞄は、ゴチャゴチャとお菓子やらゴミやらでいっぱいで。



 到底探し出せはしないだろうと判断したわたしの提案に、スズさんは「へ?」と顔を上げる。



 その手にはメモ用紙なのかゴミなのかよく分からない物が掴まれていて、紙に書いて渡したところできっとその紙すら探せなくなるんだろうとげんなりした。



 それでも。



「そうしてくれる? ごめんね!」


 スズさんは、わたしの提案に乗る気らしく、笑顔でそのゴミ――のようなメモ用紙を渡してくる。



 グチャグチャになったそれに書くつもりはないわたしは、スッと自分の鞄に手を入れノートとペンを取り出し、スマホの番号を書くと千切って差し出した。



「わざわざノート千切らなくてよかったのに! でもありがとう!」


「じゃあ、わたしはこれで」


「へ?」


 スズさんが紙を受け取るや否やペコリと小さく頭を下げ、この場から早く立ち去りたいという思いからさっさと歩き始めたわたしに、何故かスズさんはついて来る。



 周りの人が見てる。



 帰宅する生徒や先生の目がわたしを見てる。



 異界の人間と一緒にいるわたしを、訝しげに――。



「な、何ですか!?」


「何が?」


 振り返り声を荒げたわたしに、ついて来ていたスズさんはきょとんとしていて、わたしの質問の意味が心底分からないという素振りで聞き返してくる。



 でも仮令それが本当に分からないのだとしても、わたしはスズさんに苛立った。



 周りの視線に気付かないのかとイライラする。



 わたしがスズさんと一緒にいる所為で、スズさんと同じように変な目で見られているのが分からないのかとイライラする。



 これを見ている誰かがまた、家に電話したらどうしてくれるんだと、スズさんの気遣いの無さにイライラする。



――けど。



「どうしてついて来るんですか!?」


「だって、駅そっちだし」


「駅……」


 それはただの“八つ当たり”に過ぎないのかもしれない。



 スズさんが悪い訳じゃない。



 ここに来たのもわたしが連絡先を伝え忘れたからで、そうやって連絡しなきゃいけない関係になったのも、わたしが原因を作った。



 だからスズさんはしなきゃいけない事をしたまでで、スズさん自身はわたしの学校しか知らないからここに来るしかなかっただけ。



 スズさんは悪くない。



 わたしが――悪い。



 お父さんに叱られた事への苛立ちを、スズさんの行動に八つ当たりしようとしていただけに過ぎない。



 申し訳ないような、それでも苛立ちが残るような、何とも言えない状態のわたしに、



「それにさ? どうせ同じ方向なら一緒に行けばいいじゃん?」


「…………」


 スズさんは正しい事を口にする。



「知り合いなのに別々ってのもおかしいじゃん」


「…………」


「てかさ? イチコさん暇なら一緒に“巣穴”行く? 今日はアサミ先輩いると思うし!」


「予備校に行くので」


「予備校!?」


「はい」


「予備校って、え? 何しに!?」


「は?」


「予備校って、浪人してる人が行くとこじゃないの!? イチコさん浪人してんの!?」


「予備校には受験生も行きます」


「マジで!? イチコさん大学行くの!? やっぱ頭いいんだね! でさ? “巣穴”行く?」


「…………」


 人の話を聞いてないのか、それとも相当に理解力がないのか、スズさんは尚も「行く? 行く?」と繰り返す。



 呆れて苛立ちも消えていく。



 どうして分からないのかという怒りすら芽生えない。



 この人はバカだから仕方ないんだと、諦めのような感情しか出てこない。



「遊びには行けません。予備校に行かなきゃいけないんで」


「そっか。残念。休んだりとかは……」


「出来ません。昨日、父に怒られたんです」


「“ちち”!? え!? お父ちゃんに怒られたの!?」


「……はい」


「イチコさんでも怒られんの!?」


「どういう意味ですか?」


「だってイチコさん悪い事しなさそうじゃん! でも怒られるんだ!? あたしと一緒だ!」


「…………」


「もしかしてイチコさんも殴られたりすんの!?」


「え?」


「あ、でもあざないね! って事は殴られたりはしないんだ?」


「スズさんはその……父親に殴られるんですか?」


「殴られる、殴られる! しかもグーでだよ、グー! お父ちゃん手加減しないしね!」


「そ、それって虐待じゃ……」


「え!? 虐待なの!? マジで!? じゃあ、あたしがお父ちゃん訴えたら勝てる!?」


「勝てるというか……」


「あたしも殴り返してんだけどそこは平気!? それでも勝てる!?」


「殴り返す……んですか?」


「当たり前じゃん! やられたらやり返すって! 喧嘩になったら殴り合いだよ! ボッコボコにされるんだけどね!」


「…………」


「ねえ、勝てる!? 勝てる!?」


「……喧嘩両成敗です……」


「え!? 勝てないって事!?」


「……多分」


 わたしの言葉に「なあんだ、勝てないのか」と言ってスズさんは不貞腐れたように口を尖らせ、「やっとお父ちゃんに勝てると思ったのに残念」と笑った。



 話を聞く限り暴力を振るわれている分わたしより酷い目に遭っているのに、笑っている事が信じられなかった。



 話された内容よりも、笑っている事が理解出来なくて、



「あの」


 思わず口を開いた。



 スズさんは「うん?」と笑ってわたしをジッと見つめる。



 だからもう質問を止める事は出来なかった。



「怖くないんですか?」


「何が?」


「父親が怖くないんですか?」


「え? 怖いよ?」


 当然と言わんばかりの言い方で、それでも笑っているスズさんは、驚くわたしに瞬きをして小首を傾げ、



「お父ちゃんが怖くない人っているの?」


 また、当然と言わんばかりの言い方をした。



 わたしは知らない。



 確かにわたしの周りの人間は、みんな親や先生を怖がっていて、わたし自身お父さんを怖いと思ってる。



 だけどスズさんたちがそう思ってるとは思えない。



 好き勝手な事をしているという事は、親が甘いか怖くないと思ってるのかのどっちかなのだと思ってた。



 なのにスズさんは怖いと言う。



 怖いと言うのに殴り返すと言う。



 そこに筋が通らないと思うのはわたしだけなんだろうか。



 怖いなら黙って従うのが当然だと、思うわたしが間違っているんだろうか。



「怖いのに……殴り返すんですか?」


 そう聞いたわたしに。



「怖いってのと殴り返すのっては、また別の話な気がする」


 スズさんは笑う。



 その言葉の意味がわたしには全く理解出来なかった。



「別……ですか?」


「じゃないのかなって思う」


「でも怖かったら普通は殴ったりしないでしょ? 逆らわないのが普通じゃないですか?」


「あ、うん。それはそうなんだけど……親だから殴り返すのかも?」


「……は?」


「んとさ? これって誰でもそうなのかもしれないんだけど、あたしお父ちゃんだけじゃなくて、誰に怒らても怖いって思うのね? でもお父ちゃん以外に怒られて殴られても殴り返したりしない」


「他の人にも殴られるんですか?」


「うん。うちの中学の先生殴ったよ。体罰じゃんねえ? でもそれお父ちゃんに言ったらさ? 『お前みたいなバカは殴られなきゃ治らねえから殴られて来い』って言われた」


「…………」


「あり得ないじゃんねえ? 殴って頭良くなったって聞いた事ないし!」


「そういう問題ではないような……」


「まあね! でもさ? あたし学校の先生には殴り返さなかった。お父ちゃんしか殴り返さない。だって許してくれないでしょ?」


「……許す……?」


「負けたくないっていうか、理解して欲しいっていうか、あたしが言ってる事間違ってても意見聞いて欲しいっていうかさ? そういうの何でも言って許してくれんのって親しかいなくない?」


「…………」


「学校の先生は所詮他人だし、あたしがどう思ってるかとかって結局はどうでもいいと思うのね? でも親は違うじゃん? だから殴り返してでも意見聞いてって思う」


「意見……」


「怒られて怖いけど意見は聞いて欲しい。だから殴られたら殴り返す! 殴り返しながら文句言う!」


「わたしには……分かりません」


「そう? でもいくら怖いって言っても相手も人間じゃん。お化けとか動物なら無理かもしれないけど、人間相手だって思えば気持ち通じる気がするじゃん」


「…………」


「結局、ボッコボコにされて泣き喚くのはあたしだけど、それでもあたしの意見受け止めてくれてるのには違いないし」


「…………」


「だからそれは怖いってのとは違うんだよね。何ていうか……あたしの家じゃ殴り合いも話し合いの一環って感じ?」


「話し合い……ですか」


「イチコさんは?」


「え?」


ちちさんと話し合ってオーバーヒートしちゃったりしない?」


「わたしは——」


「ん?」


「……うちは、話し合いなんてありません」


 わたしの言葉にスズさんは、ようやく笑みを消して驚いた顔をし、「親子なのに?」と、一言小さく発した。

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