11



――その連絡が入ったのは、五日後の事だった。





 スズさんが学校に連絡先を聞きに来てから数日、わたしはそれまでと変わらない生活を送っていた。



 姉の相手を探す事は、もう“あの人たち”に完全に任せ、まるでそんな事などなかったような数日を過ごした。



 学校に行き、予備校に行く。



 家に帰ってご飯を食べ、勉強をして寝る。



 規則正しい生活を取り戻した。



 誰にも文句を言われない、息苦しい生活が戻った。



 姉がコソコソと家を出る計画を立て始めている事には気付いていたけど、わたしはそれに気付かない振りをして自分の生活を続けた。



 そうしてたのはきっとこの生活が、そう長く続くものではないとどこかで理解していたからかもしれない。



 元の生活は長くは続かない。



 起こった事は無かった事には出来ず、着実に姉のお腹で子供は成長していく。



 そして一度足を踏み入れたその場所から、逃れる事は出来ない。



 電話が掛ってきたのは、スズさんがわたしの学校に来て5日後の事。



 予備校の授業中、連絡が入った。



 いつもなら予備校じゃスマホの電源を切ってるのに、姉の事を頼んでいるという事があって電源を切らずにポケットに入れていたわたしは、マナーモードにしていたスマホが突然震えてビクリと体を震わせた。



 きっとこれが通常の状態なら無視していたと思う。



 とりあえず授業が終わるまで待って掛け直していたと思う。



 だけど第六感というべきか、 “嫌な予感”を感じたわたしは、トイレに行きたいと講師に嘘を吐いて教室を出た。



『あた、あたし! スズ! 大変な事に!』


 わたしが「もしもし?」を言う前に聞こえてきた声は、十二分に慌てていて、相当に大変な事が起こったんだという事だけはすぐに理解出来た。



「どうしました?」


 出来るだけ教室を離れようと、話しながら歩くわたしに。



『あた、あたしもよく分かんないんだけど』


 スズさんはかなり動揺して言葉を紡ぐ。



 だから凄く不安になった。



 何があったのか想像出来ないけど、物凄くハラハラとした。



「何があったんですか?」


『イチコさんの、おね、お姉さんの相手』


「見つかったんですか!?」


『みつ、見つかったんだけど』


「スズさん、落ち着いて!」


『みつ、見つかったんだけどね!?』


「見つかったんですね!?」


『で、でも、何か、あぶ、危ないんだって!』


「はい!?」


「命が!」


「……え?」


『あたしもよく分かんないんだけど、今病院にいるんだって!』


「どういう――」


“事ですか?”



 その質問をちゃんと口に出来たかは覚えてない。



 頭が真っ白になって自分で何を言ってるのか分からなかった。



 ぼんやりとする脳内で、かろうじて聞き取ったスズさんの説明曰く、姉の相手――自称“アスマさん”――は、事故を起こして病院に運ばれ、今意識不明の重体らしい。



 詳しい事はよく分からないけど今日が峠だと言われてるらしいと。



 ついさっきアスマさんから連絡が来たんだと、パニックになりながらもスズさんは一生懸命説明してくれた。



 わたしはよく分からなかった。



 頭が上手く働かなかった。



 その場に立ちすくみ、ただ携帯を耳に押し当てる事しか出来ず——。



『アスマが病院にいるらしくて、あたしもこれから行くんだけどどうする!?』


「どうするって……何がですか?」


 スズさんの問いの意味も理解出来なかった。



『お姉さん! イチコさんのお姉さん!』


「姉……?」


『イチコさんしっかりして! お姉さんに言わないの!? 教えないの!? だってイチコさんのお姉さん、その人の事好きなんでしょ!?』


「で、でも」


『死んじゃったら二度と会えないよ!』


「…………」


『あのね!? あたしそういうのよく分かんないけど、それでもね!?』



“思ってる事を伝えるのって凄く大切なんだよ!”



 スズさんのその言葉が何故かずっしりと心に圧し掛かった。



「姉に……連絡します……」


 半分放心状態のわたしに。



『総合病院ね! あたしも向かうから!』


 スズさんはそう言って通話を切った。



 頭がボーッとして、思考回路が働かない。



 手足の感覚がなかった。



 こんな結末が待ってたなんて思ってもなくて、わたしはただ姉の相手に話し合って欲しいと――姉の考えを止めて欲しいと思ってただけなのに。



 それでもわたしの手は自然とスマホを操作していた。



 体が勝手に動いているという感じだった。



 姉に内緒で探していたのに、どう説明すればいいのかと、そんな事すらその時は考えてもいなかった。



 スマホのメッセージアプリから姉の名前を出し、通話発信ボタンを押す。



 再び耳に当てたスマホから聞こえる呼び出し音が、凄く遠くから聞こえてるような感覚に陥った。



――でも。



『――はい』


 姉のその声はとても近く、とてもクリアに聞こえ、わたしはようやく覚醒かくせいした。



 姉がわたしの話を聞いてどう思ったのかは分からない。



 わたしは姉ではないし、何としてでも子供を産みたいと思うほど好きな相手が出来た事もない。



 だからその時の姉の心境なんて想像も出来なくて、どういう気持ちでそれを言ったのか分からないけど。



『どこの病院!?』


 早口でそれまでの経緯を簡単に話し、現状を伝えたわたしに、姉は泣き叫ぶような声を出した。



 それは姉じゃなかった。



 今まで聞いた事のない、女としての声だった。



 病院を告げたわたしに、姉は何も言わなかった。



「ありがとう」も「分かった」も言わずに通話を切った。



 だから物凄く心配になって、こういうのは胎教に悪いんじゃないかと――産まないように話をしてもらおうと思っていたのに、そんな事を考えてた。



 だからって、わたしが何をしたところで何がどうなる訳でもない。



 ここからはもうわたしには関係ない。



――なのに。





 なのにどうしてわたしは走っているんだろう。



 授業途中の予備校を飛び出し、病院に向かっているのは何故だろう。



 また父に叱られると分かってるのに。



 また父に罵られると分かってるのに。



 また父に蔑まれると分かってるのに。



 また――。



 息苦しさに胸が痛くなる。



 全力で走る事なんて滅多にないわたしの膝がガクガクと震え始める。



 それでもわたしは走ってた。



 速度を緩めず走ってた。



 タクシーを拾えばもっと早く着けるのに、この時のわたしはそんな事を考え付く余裕もなく、ただ只管に走り続けた。



 スズさんに言われた総合病院の入口が見えた時、丁度タクシーから降りる姉の姿が目に映り、



「お姉ちゃん!」


 叫んだわたしのその声は、息も絶え絶えでしわがれた声だった。



 それでも何とか聞こえたらしい姉がこちらに振り返り、わたしはそこ目掛けて更に加速した。



「イチコ、彼は――」


「イチコさん!」


 姉の目の前まで駆け寄り足を止め呼吸を乱すわたしに、聞こえたスズさんの呼び掛けは、姉の言葉とほぼ同時だった。



 姉の言葉を聞き流し、目を向けた先。



 二重扉になっている病院の入口からスズさんが飛び出してくる。



 その向こう。



 一枚目と二枚目の扉のその間に、黒髪の美麗な男が立っていた。



 両手をジーパンのポケットに突っ込み、こんな時だというのに涼しげな顔で、慌てる事も焦る事もなく、いつもの如くに妖艶さを纏う。



 ここが病院という場所柄だからだろうか。



 それとも緊迫した状況での目の錯覚だろうか。



 一瞬、彼が――アスマさんが――死神か悪魔に見えた。



「五一二号室!」


 駆け寄ったスズさんの叫びにハッと我に返った時には、既に姉が走り出していて。



「あ、ありがとうございます!」


 わたしはお礼を言って急いで姉のあとを追い駆けた。



 わたしが行ってどうなる事でもないのに。



 むしろわたしは邪魔なのに。



 この時のわたしは心のどこかで姉の相手を見たいと思っていたように思う。



 姉がそこまで惚れ込んだ相手を見てみたいと、姉の人生を狂わせる相手の顔を拝んでみたいと。



 もしかするとわたしは最初から、そういう腹積もりで“アスマさん”を探していたのかもしれない。



 冷静にそんな自己判断をしてしまいながらも、結果わたしに冷静さはなかったんだと思う。



 もし本当に冷静であったなら、スズさんの言葉を聞いた時点でおかしいと思ったはず。



 交通事故で意識不明の重体。



 危篤状態らしい姉の相手。



 それが本当だったなら、五一二号室なんかにはいない。



 それが本当だったなら、ICUだか集中治療室だか、そういう名称の所にいるはず。



 それに気付かなかった姉もわたしも、相当にテンパっていたんだと思う。



 勉強ばかりしてきたわたしたち姉妹も、こういう時は相当馬鹿だという事になる。



 駆け込んだエレベーターの中、姉はずっと階数表示を見て涙ぐんでいた。



 それでもわたしには姉の気持ちが分からなかった。



 それほどまでに人を想う気持ちが理解出来ない。



 人を想うという事がどういう事なのか分からない。



 でも姉を見る限りそれはとても、大変な事なんだとは何となく分かった。



 五階に着いたエレベーターの、扉が開ききる前に姉は外に飛び出した。



 院内で走ってはいけないという決まりだけはギリギリ分かっていたらしい姉が、早足でその病室に向かっていく。



「アスマさん!」


 五一二号室の扉を、姉は躊躇ためらいもなく開け――。



 そこには頭に包帯を巻き顔を腫れ上がらせ、足を吊るされベッドに横たわる、それでもどう見ても“重体”には見えない野暮ったい男がいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る