12



――その後彼らに会ったのは、お盆が明けた頃だった。





 お礼と言っても何を渡していいのか分からず、お金を渡すというのも何だか違う気がして、スズさんが好きそうなケーキを買って“そこ”に向かった。



 蒸し暑い湿気を多く含む空気が体に纏わり付く。



 太陽がないだけマシなんだろうけど、不快な気候には変わりない。



――深夜。



 日付が変わる少し前にわたしはその場所に立った。



 薄気味悪い駐車場は、以前来た時よりも点いてる外灯が減っているように感じる。



 ふと見上げると夜空は妙で、背筋が少しゾクリとした。



 月はあるのに星がない。



 上の方は風が強いのか、月に掛かる雲がスーッと流れていく。



 背中を流れる汗は、暑さからなのかそれとも――。



「イチコさん!」


 大きく反響する声にビクリと体を震わせ視線を向けた先。



 パタパタと足音を響かせこちらに向かってくる人影が見えた。



 その人影の向こうには、もうひとつ人影がある。



 擦った足音。



 気だるそうな身のこなし。



 夜の闇を纏う美麗な異界の住人。



「待った?」


 いつの間にか目の前まで来ていたスズさんが少しだけ息を切らして足を止め、「久しぶり!」と以前と変わらない無邪気な笑顔を見せる。



 何だかそれに少し安心した。



「お久しぶりです」


「一ヶ月ぶりくらい!?」


「ですね。その節はお世話になりました」


 小さく頭を下げ、「つまらない物ですが」と持っていたケーキの箱を差し出すと、スズさんは「え!? あたしに!? 本当に!?」と笑顔を振り撒きながらそれを受け取る。



 そのタイミングでようやくアスマさんがスズさんの背後に着き、アスマさんはわたしを一瞥してすぐにスズさんに目を向けると、「デブる」と一言だけ発した。



「でもいっぱい食べたら胸大きくなるかもしれないじゃん」


 ケーキの箱を持ってアスマさんを見上げるスズさんは、少しだけ頬を膨らせ。



「ならねえ」


 アスマさんはそんなスズさんを鼻で笑う。



 相変わらずと言えば相変わらずのふたり。



 その距離も変わらない。



 友達とは言い難い、触れるか触れないかの距離。



 だからと言って近くにいる割には、恋人同士という雰囲気もない。



 でもそこに差はあるものの、お互いに想い合っているというのが伝わってくる。



 言葉にしなくても分かる。



 アスマさんの目が――。



「で、今日は何だ?」


 スズさんを見ていた目がスッとこちらに向けられる。



 その目にどうしても慣れないのは、そこに僅かな威嚇いかくがあるから。



 最初は無意識ながらも部外者に対しての――こちら側の世界に対しての――威嚇だと思ってた。



 だけどそういう事でもないらしい。



 スズさん以外に向けられる、アスマさんの目は全て同じ。



 スガ先輩やマサキさんにも、同じような目を向ける。



 だからそれは“異界”という分類で分けているのではなく、“自分の世界”で分けているのだと思う。



 自分のテリトリーというものを強く大切にしてるんだと思う。



「今日はおふたりにお礼をと思いまして」


 お礼と、報告。



 その為にスズさんに連絡した。



――あの日。



 病室から出た時にはもう、スズさんもアスマさんもいなかった。



 それが異界の流儀なのかと、とりあえずのところは納得した。



 というより納得しておかなきゃならなかった。



 そのあと起こった出来事は、悠長に物事を考える暇も与えず、ある程度の事が片付いた時にはもうお盆が過ぎていた。



「落ち着いたから会いたい」と言ったわたしに、スズさんはふたつ返事で了承してくれた。



「アスマと行くね」と言ったのはスズさんで、この場所を指定された。



 初めてアスマさんに会った駐車場。



 わたしとスズさんとアスマさんを結ぶ場所は、ここか“巣穴”しかない。



「お礼なんていいのに!」


 渡したケーキの箱をしっかりと持ち笑ったスズさんに、「お前は何にもしてねえからな」とアスマさんが呆れた声を出す。



 それでもスズさんは満面の笑みで、「まあね」と頭を掻いた。



「ねえ、お姉さん元気?」


 不意にスズさんが向き直り、口にした問いに、「はい」と答えながらあのあとの事を思い出す。



 結構――というより、相当大変だったあのあとの事。



 あれからわたしの家族は変わった。



「あの人は、“シゲル”という名前だそうです」


「あの人ってアスマの名前使ってた人?」


「はい」


 突然報告し始めたわたしに、スズさんは興味深々という感じだけど、アスマさんは違った。



 全く興味がないのか、それともわたしが言うまでもなく本名を知っていたのか、聞いているのか聞いていないのか分からない素振りで、こちらに目も向けずポケットから煙草を取り出す。



 薄暗闇にポウっとライターの火が浮かぶ。



「シゲルさんはアスマさんが言ってた通り、アスマさんの名を騙ってよからぬ事をしてたらしいです」


「よからぬ事って何?」


「いつの事なのかは知らないんですが、昔アスマさんに彼女を寝取られたらしくて、その腹いせに名前を騙りナンパをして酷い捨て方をしていたと言ってました」


 わたしの説明にスズさんがアスマさんにチラリと視線を向ける。



 俯き加減で煙草を吸っていたアスマさんは、すぐにそれに気付き、「身に覚えがありすぎて、どれだか分かんねえよ」と、言い訳にはならない言い訳を口にした。



「シゲルさんも言ってました。アスマさんは覚えてないだろうと」


「そういうのはヤられた側は忘れないんだよね! あたしも元彼に浮気されたから分かる! ヤった側って結構平気なんだよ! ヤられた側は絶対に忘れられないのに!」


「そうみたいです。だから結構長い間、アスマさんの名を騙って同じ事を繰り返していたみたいです」


「って事はさ? イチコさんのお姉さんもそのうちのひとりって事?」


「はい。……ただ、確かに最初は姉の事も適当にヤるだけヤって捨てようと思ってたらしいんですが、どうも本気になってしまったらしいんです」


「お姉さんを好きになったって事?」


「はい。シゲルさんは凄く後悔したと言ってました」


「後悔?」


「名前を偽った事を」


「ああ……」


「自分の気持ちに気付いた時は遅かったと……今更本当の名前は言えないし、言うとなればその理由も話さなきゃならない。そんな卑怯な事をする男だと、自分勝手だとは分かっていても、思われたくなかったそうです」


「まあ確かに自分勝手だよねえ」


「だから突然姉がシゲルさんの前から消えた時も、特に連絡はしなかったと――出来なかったと言ってました」


「そっか」


「あの日、あの病院でシゲルさんは姉に何度も謝ってました。……泣いてました」


「お姉さんは? 許したの?」


「はい」


「じゃ、じゃあふたりは」


「結婚します」


「マジで!? よかったじゃん! おめでとう!」


「そうでもないです」


「へ?」


 スズさんの驚いた声に釣られたのか、アスマさんの体がほんの少しだけピクンと反応した。



「父が……当然と言えば当然なんですが強く反対しまして」


「あ、そっか。そりゃそうだよね……」


「父はとても姉を大事に……というか高く評価してたんです」


「評価?」


「姉は頭がよくて、父の前では……というか、家族の前では品行方正で、だからこそわたしも今回の事に驚いたんですが。父からしてみればまさか姉がという感じで酷く怒りまして」


「じゃあ、結婚は?」


「父は強く反対しました。子供を堕ろせと言いまして」


「うん」


「その時はシゲルさんもまだ入院中で姉の傍にはいられなくて、父は姉の子を無理矢理堕ろさせようとしました」


「む、無理矢理って!?」


「とりあえず家に閉じ込めて無理矢理病院に連れて行こうとしたんです」


「そんな……」


「父の気持ちも分からなくないんです。姉は父の夢をことごとく叶えてきていて、これからという時だったんで」


「夢って何?」


「父は検事になるのが夢でした」


「検事!」


「でも父の実家はとても貧乏で、夢半ばで諦めざるを得なかったんです。だから自分の夢を娘に託したんです」


「じゃ、じゃあさ? イチコさんのお姉さんってそういう大学に行ってるって事?」


「はい」


「え!? じゃ、じゃあイチコさんも!?」


「その……つもりでした」


「“でした”?」


「やめたんです。他にしたい事があるんで。大学には行きますが、また違う道を歩みます」


「でもお父さんは? 許してくれるの?」


「許す……というよりは、もう何も言わないと思います」


「へ?」


「姉が家出をしました」


「ええ!?」


「シゲルさんが退院した直後です。父の目を盗んで家を飛び出し、シゲルさんの元へ行きました」


「イチコさんには連絡あったって事!?」


「はい。家族の誰にも言ってませんが、わたしのところには連絡が来ました。でもどこにいるのかは教えてくれませんでした。ただ来月籍を入れると。シゲルさんも姉もハタチを超えているので、結婚するのに親の承諾はいらないんです」


「お父さんはそれ知らないんだよね?」


「はい。父は姉がいなくなって人が変ってしまいました。わたしの父はとても威厳のある……というよりとても怖い人だったんですが、すっかり覇気はきをなくし、まるでもぬけの殻のようになってしまいました」


「…………」


「もう何も言いません。小言ひとつ言いません」


「そう……」


「そんな事がありまして、中々お礼の連絡出来なかったんです。お世話になったのに申し訳ありませんでした」


「あ、ううん。それは別にいいよ! ね、アスマ!」


 スズさんが目を向けた先。



 アスマさんは二本目の煙草に火を点けていた。



 アスマさんはスズさんの言葉に無言の肯定をして、また俯く。



 つまらないというのが態度で分かる。



 こういう話に興味がないらしい。



 そんな事どうでもいいという感じが伝わってくる。



 そのアスマさんの態度を気にしたのか、スズさんは「イチコさんも大変だと思うけど、頑張って!」と取り繕うように言葉を紡ぐ。



 わたしはアスマさんからスズさんに目を向け、少しだけ自嘲的に口許を緩めた。



「わたしはいいんです。わたしは大丈夫です。ただ、姉がこれで幸せになれるのかと疑問に思うんです。わたしからするとこれは悪い結果な気がします。今はいいかもしれませんが、何年後かに幸せでいられるのかと心配になるんです」


「だ、大丈夫だよ、きっと!」


「そうでしょうか」


「だってそう思わなきゃ!」


「…………」


「ね、アスマ! 幸せになれるよね!?」


「んあ?」


 振り返ったスズさんの質問に、アスマさんが面倒臭そうに返事をする。



「イチコさんのお姉さん、幸せになれるよね?」


「興味ねえ」


 少しだけ眉根を顰め言葉を吐いたアスマさんは、「え?」と聞き返したスズさんに、



「どうでもいい」


 更に面倒臭そうな声を出した。



 生温い風が吹く。



 煙草の煙がユラリと大きく揺れた。

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