13


 アスマさんの言葉に対して、何も思わなかったと言えば嘘になる。



 言い草に腹が立ったのは確かだった。



 けど、それが事実だというのも確かで、正直わたしの姉の幸せ云々うんぬんなんてアスマさんには関係ない。



 むしろ、わたしにすら関係ないかもしれない。



 姉が幸せであろうとなかろうと、わたしがどうなる訳でもない。



 辛くもなければ悲しくもなく、かといって楽しい訳でもない。



 きっとそう思ったから何も言わなかったんだと思う。



 その通りですねという無言の同意をしたのはその所為だと思う。



 だけど、スズさんは違った。



 非道だと噂されるアスマさんと、わたしより近い距離にいるにも拘わらず、それに慣れないのか元より納得出来ないのか、拗ねたように唇を尖らせた。



 そんなスズさんを気にする様子もなく、煙草を咥えて煙を吸い込んだアスマさんは、勢いよくそれを吐き出すと「話は終わりか?」とわたしに目を向ける。



 そしてわたしが、「はい」と短い返事をすると、



「なら俺は帰る」


 アスマさんは気だるそうにそう言って、持っていた煙草を足元に落とした。



「おい、お前は――何だよ」


 落とした煙草を草履の底で踏み消し、アスマさんがスズさんに目を向け眉根を寄せる。



 拗ねているというのを隠す事なく表情で表わすスズさんは、



「だ、だってアスマが」


 不貞腐れた物言いをした。



「俺が何だよ」


「酷い事言う!」


「酷い事だあ?」


「興味ないとか、どうでもいいとか!」


「別に酷くも何ともねえだろ」


「だ、だってイチコさん、心配してるのに!」


「心配だあ?」


「そうだよ! お姉さんが幸せになれるかって心配してるじゃん! そりゃ確かにイチコさんのお姉さんがどうなろうとアスマには関係ないかもしれないけど、イチコさんだって心配してるんだし、“幸せ”っていうのが何であれ、どうでもいいとかって酷い……気がする」


「勘違いすんな」


「……勘違い?」


「俺がどうでもいいっつったのは、この子の姉貴の幸せ云々の話じゃねえ。誰であれ、他人の幸せなんつーもんは興味ねえしどうでもいいって意味だ」


「も、もっと酷い!」


「酷くねえ」


「酷いよ!」


「バカぬかせ。他人の幸せなんざ他人に理解出来るもんじゃねえんだよ」


「へ?」


「理解出来ねえようなもんに心配するなんてのは、お門違いだ。――そもそも」


「そもそも?」


「人は本気で他人が幸せかどうかなんて心配しねえんだよ」


「は?」


「人間なんつーもんは、自分の為だけに生きてんだ。他人の事なんて構ってられるか」


「そ、そんな事ないよ! だって心配してるって事は、他人の事を気にしてるって事だから自分の為じゃないじゃん! 相手の為じゃん!」


「違う」


「……違う?」


「“心配”してんのも自分の為だろうが。『幸せだ』って言えば納得出来んだろ? 『ああ、よかった』ってなもんなんだろ。“自分が”納得する為だか、“自分が”安心する為に気にしてんじゃねえか」


「だ、だけど幸せである方がいいじゃん!」


「だからって不幸でも当人以外は痛くも痒くもねえんだよ」


「そ、そうだけど……」


「その上、“幸せ”なんて定義がないもんに対して心配するなんざ何の意味もねえ」


「…………」


「そういう定義のねえ他人の幸せに軽々しく首突っ込むのは、俺から言わせりゃバカだ」


「何で?」


「…………」


「何でバカ?」


「…………」


「どういう意味?」


「……しくじった」


「アスマ! 分かりやすく!」


「……帰る」


「ねえ、アスマ!」


「…………」


「何でバカなの?」


「クソッ!」


 スズさんの問いに突然毒づいたアスマさんは、顔いっぱいにげんなりとした表情を作る。



 何をしくじり、何がクソなのかさっぱり分からないけど、スズさんはアスマさんを見上げ、目を輝かせると「何で?」と言葉を繰り返した。



 スウッと駐車場に深い闇が落ちる。



 空を見上げると月が雲に隠れていた。



「分かりやすくね? 分かりやすく!」


 さっきまでとは違う、楽しげな声を出したスズさんに。



「お前に分かりやすく話すのは、犬猫に話すよりも難しいんだよ」


 アスマさんはそう言って溜息を吐き、「さっきも言ったが」と語り始めた。



「“幸せ”ってのには定義がねえだろ。“幸せ”つーのは“まやかし”だ。そうでありたいと思ってるだけだ。楽しいとか嬉しいとか、そういう気持ちを“幸せ”だっつー言葉に置き換えてるだけだろ」


「それは……前にも聞いた」


「けど他人のそれはまた話が違う。誰がどんな事で嬉しいだの楽しいだのって思うかなんて他人には分かんねえだろ」


「でも、ある程度の事は分かるじゃん! 例えばさ? 笑ってれば幸せなんだろうな、とか思うじゃん! そういう事をイチコさんは言ってるんだよ! 何年かしても幸せそうに笑ってるかな、とかいう心配で、“幸せ”が“まやかし”だとしてもイチコさんのお姉さんがそう思ってればいいって――」


「そんな事言ってる時点で根本的に間違ってんだよ」


「何で?」


「笑うくらいなら誰でも出来る」


「は?」


「お前も笑ってたろ」


「あたし?」


「そいつを連れてきた時、お前変な顔して笑ってただろ」


 そう言って突如わたしを指差したアスマさんが、何を言わんとしてるのかはすぐに分かった。



 わたしがここで初めてアスマさんに会った日の事。



 わたしからすれば何ひとつ変わりなく、無邪気に笑ってると思っていたスズさんの異変に、アスマさんが気付いた時の事。



「へ、変な顔じゃない……」


「顔面引き攣らせて笑ってんのは変な顔っつーんだよ。けど、お前の事知らなけりゃ微妙な変化には気付かねえ。――あんた気付いたか?」


 不意にアスマさんの目がわたしに向けられる。



 でもわたしが「いえ」と首を振ると、「ほらみろ」とアスマさんはすぐにスズさんに視線を戻した。



「笑ってりゃ楽しいとか嬉しいとかっつーなら、あん時のお前も充分楽しくて嬉しかったんだろ」


「…………」


「あん時、楽しかったのかよ?」


「……ううん」


「嬉しかったか?」


「……全然」


「でも他人からすりゃ、お前は楽しそうで嬉しそうだったんだよ。その時点でもうお前と他人との間に誤差が出てんじゃねえか」


「……うん」


「その逆もしかり、だ」


「逆……?」


「周りから見りゃ楽しそうに思えねえ事も、そいつにしてみりゃ楽しいって事だよ。そういう事に首突っ込む自体間違ってんだよ。“自分以外”の“幸せ”なんて理解出来ねえんだから」


「そ、そうかもしれないけど……」


「だから、俺にしてみりゃ他人の幸せも楽しみもどうでもいいし興味もねえ。誰がどういう事で楽しいだとか嬉しいだとか感じるのか知りたいとも思わねえ」


「で、でも——」


「“でも”も“ヘチマ”もねえんだよ。他人の心配するって行為は、一見いい行ないに見えるかもしれねえけど、俺から言わせりゃ薄情な行為だ」


「薄情!?」


「相手が『幸せだ』って言っても、『不幸だ』って言っても現状は変わらねえ。『ああ、そうか』で終わりだって言ってんだよ。慰めを口にしたとしてもその場限りだ。“幸せ”も“不幸”も分けられるもんじゃねえ。さっきから言ってんだろ。“当人”以外には何の損も得もねえ」


「でも! “でも”って言っちゃうけど! イチコさんにとってお姉さんは他人じゃないじゃん! 家族だよ! だから」


「家族も他人だろ。俺がさっきから言ってる“他人”つーのは、“自分以外”って意味だ。自分以外の事なんて誰にも分かんねえだろ。自分の事すら――分かんねえバカが多い」


「…………」


 ことごとく言い返されてる所為なのか、徐々に顔を俯かせ上目遣いにアスマさんを見ていたスズさんを見遣り、アスマさんが佇まいを正す。



 そしてスウッと背筋を伸ばし、スズさんとわたしを交互に見ると、ゆっくりと口を開いた。





 縄で手首を縛られ天井から吊るされた女が、「助けて下さい」「許して下さい」と泣きながら乞う。



 幾箇所か生皮を剥がれ、所々の肉を削ぎ落とされ、最早原型を留めない女のその風貌に、男はにたりと笑った。



 ピチャピチャと女の爪先から床に向かって滴り落ちる血は赤黒い。



 血は――黒さを含む。



 男は刃物を手に取って、「殺しはせん」と女に近付く。



 あばら屋には悲鳴が響き、女は苦悶の表情で「助けて下さい」「許して下さい」と泣きながら再三に乞う。



 ピチャピチャと。



 シトシトと。



 床に滴り落ちる血。



 男は床に茶碗を置き、滴り落ちるそれを受ける。



 落ちる血は時間を掛けずとも茶碗をいっぱいにする。



 いい頃だと茶碗を持ち上げた男は、そのままそれを口許へと運び、勢いよくゴクゴクと飲み干したのち、にたりと満面の笑みを浮かべた。



 そしてゆっくりと口を開く。



「これぞ我が幸せの時なり

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