「どういう事!?」


 わたしより先に大きな声を出し、取り乱したのはスズさんだった。



 それまでと違う、落ち着きのないスズさんの態度に、わたしは思わず呆気あっけに取られ言葉を失ってしまった。



 本来ならここにいる誰よりもわたしが取り乱すべきなのに、本来ならここにいる誰よりもわたしがどういう事かと聞くべきなのに、スズさんは見るからにわたし以上に困惑している。



 そんなスズさんにアスマさんが目を向け、「どういうもクソもねえ。そういう事だ」と面倒臭そうに答える。



 その答えに納得がいかないのは、やっぱりスズさんも同じようで、



「え!? そういう事ってどういう事!?」


 スズさんはアスマさんにズイッと近付き、その腕をギュッと両手で掴んだ。



「だから、そういう事だっつってんだろ」


「え!? アスマの子じゃないって事!?」


「ああ」


「その女の人知らないって事!?」


「ああ」


「ほ、本当にアスマの子じゃないの!?」


「いくら俺でも会った事もねえ女、孕ませる技持ってねえよ」


「わ、忘れてるだけとかじゃない!? いっぱい女の人いるから忘れてるとか」


「んな訳あるか。――最近の話か?」


 スッ――と、緩やかに流れその目が向けられた。



 反射的にビクリと小さく体が震え、半歩後ろに後退してしまった。



 どうしてもこの目が——怖い。



「さ、最近って何がですか?」


 口籠り、それでも刺々しさを含ませて聞き返したわたしに、



「妊娠。最近の話か?」


 アスマさんは特に気にもしない様子で質問してくる。



「い、いつの事かは分かりません。わたしが聞いたのは二週間前です」


「何ヶ月?」


「え?」


「妊娠何ヶ月かも聞いてないのか?」


「あ、……っと、確か三ヶ月目だと言ってました」


「なら絶対に俺じゃねえな」


「え?」


「俺、ここ数ヶ月新しい女作ってねえし」


「で、でも、“アスマさん”に出会ったのは半年前だって姉は言ってました! クラブで会ったんだって! “アスマさん”にナンパされたんだって!」


「尚更俺じゃねえよ」


「尚更……?」


「俺はクラブで女引っ掛けるような真似しねえし、そもそも引く手数多あまたのこの俺が、何で女引っ掛けなきゃなんねえんだよ」


「そ、それは——」


――最初から、アスマさんに会った時から、わたし自身思ってた事。



「それにな。あんたには悪いけど、こういうの初めてじゃねえんだよ」


「――え?」


「あんたの姉貴は騙されたって言ってんだよ」


「騙された……?」


「男が偽名使ったんだよ」


「偽名……」


「つーか、わざと俺の名前使ったんだな」


「どういう事……ですか?」


「よくある話だ。俺に恨みある奴が、俺の名前使って悪さしやがる」


「じゃ、じゃあ姉もアスマさんに恨みのある人に騙されたと……?」


「さっきからそう言ってんだろ」


「で、でも——」


「まあ、俺の言う事信用出来ねえなら俺の写真やるから姉貴に見せてみろ。俺の顔見てそれでも俺の子だって言うなら、責任取って結婚してやる。でも絶対俺じゃねえ」


「そんな……」


「残念だったな」


 ブツリと、また途切れてしまった。



 アスマさんの言う事を全て信用するのなら、また一からやり直しという事になる。



 しかもアスマさんの口振りから、アスマさんの名前をかたる人はひとりやふたりの話じゃなく、これまでよりももっと探し辛いという事が安易に予想出来る。



 見つけられるんだろうか。



 探し当てられるんだろうか。



 一体誰に聞けばいいのか、わたしにはさっぱり分からない。



 どうすればいいのか分からない。



 見つけられる自信がない。



 いよいよ八方塞はっぽうふさがりな状態に行き当たり、やる気というものが削がれていくのをヒシヒシと感じる。



 わたしには最初から無理だったんじゃないだろうか。



 そんな考えしか出てこない。



 そんな思いしか浮かばない。



 むしろどうして探そうとしたんだろうと、身内とはいえ所詮しょせんは他人なのになどと、思いたくない事までも頭をよぎっていく。



 その刹那せつな、酷く嫌な人間になり下がった気がした。



 でも元よりわたしはそういう人間だったのかもしれない。



 もう――諦めようか。



 そう思った時だった。



「おい。いつまでそうしてんだ」


 呆れたような低い声に、いつの間にか地面に落としていた視線を上げると、アスマさんの体に横側からべったりとくっ付くスズさんの姿があった。



 いつからそうしていたのか分からない。



 わたしがアスマさんと話してる時からずっとそうしていたのかもしれない。



 すっかりスズさんの存在を忘れていた所為で、理解出来ない状況に、戸惑うわたしの視線の先に、スズさんの顔は見えない。



 アスマさんの背中側に顔を隠すようにして埋めるスズさんが、一体どんな表情をしているのか想像も出来ない。



 一体何がどうなって、どういう事情で抱き付いているのか、わたしにはさっぱり――。



なつくな」


「…………」


「暑い」


「…………」


「離れろって」


「…………」


「もう充分だろ」


「…………」


「俺の子じゃねえっつーんだよ」


――理解出来た。



 それは所謂いわゆる安堵の抱擁ほうようらしい。



 わたしの姉がアスマさんの子供を妊娠した訳じゃなく、更には結婚する事もない結果に、安心して抱き付いただけの事らしい。



 つまりスズさんはずっと不安だったという事なんだろうか。



 あんなに変わりない態度でいたのに。



 ずっとニコニコと笑ってたのに。



 嫌な顔も不安そうな顔も一切見せず、さっきまでずっと“他人事”を決め込んでいたのに。



――けど。



 そんなわたしの判断は大きく間違っていたらしい。



「これは気にすんな」


 やっぱり呆れた声で体に抱き付くスズさんを指差し、わたしに向かってそう言ったアスマさんは、特に無理に引き離すような事をするつもりはないらしく、



「こいつ、来た時からおかしかったろ」


 溜息混じりに言葉を吐き、チラリとスズさんに目を向ける。



 思わず「え?」と聞き返してしまうと、「ああ、あんたには分からねえか」と納得したような声を出し、それがさっき「ああ、なるほどな。そういう事か」と言った声の感じと同じだった事に、あの言葉はスズさんの事を思って言ったんだろうと悟った。



 それが本当だとすれば、やっぱりアスマさんは最初から、スズさんがおかしいと思ってた事になる。



 あんなに何でもないという態度をしていたスズさんから、それを悟ったという事になる。



 わたしには分からない違いがあったらしい。



 だからわたしの話を聞き、「なるほど」と理由を知り、「そういう事か」と納得したらしい。



 どういう違いがあったのかと、聞いてみたいと思ってしまった。



 だけど状況が状況なだけに、そんな話題をしてる場合じゃない。



 とにかくわたしは、



「あの……心当たりはありませんか?」


 どうするかを決めなきゃならない。



 姉の相手を探すかどうか、はっきり決めなきゃならない。



 だからアスマさんに質問をした。



 もしアスマさんが「分からない」と言うのであれば、もう諦めようと思っていた。



 アスマさん本人が分からない事を、わたしが分かる訳がない。



 わたしはこちらの住人じゃなく、あちらの住人なんだから。



「心当たりって何の?」


「姉の相手です」


「俺の名前使った奴って事か?」


「はい」


「…………」


「心当たりがないならいいんです。でももし何か分かる事があるなら――」


「ない訳でもない」


「え?」


「大体の目星はついてる」


「お、教えて頂けませんか!?」


「まあ、教えてやってもいいけど」


「お願いします!」


「でもちょっと待て」


「え?」


「確認してえ事があんだよ」


「確認……ですか?」


「ああ。――おい、クソガキ」


 目も向けず、アスマさんがスズさんの頭をポコンと軽く叩くと、その拍子にスズさんが「んっ」と短い声を出した。



 それでもアスマさんにくっ付いたまま、離れようとしないスズさんに、



「お前、明日マサキのトコ行け」


 アスマさんはそう言って、頭を叩いたその手を、スズさんの頭の上に載せた。



「……“巣穴”?」


「ああ。その子連れて行け」


「いいけど、何で?」


「こういうのはマサキの得意分野だ。あいつに聞くのが早い」


「じゃあ、アスマも明日来る?」


「ああ」


「何時に来る?」


「教えねえ」


「え!? 何で!? 何時!?」


「秘密」


「何で!? あっ、でもあたしが行くまでに帰らないでね!?」


「約束はしねえ」


「やだ!」


「知ったこっちゃねえ」


「やだやだやだ!」


「なら離れろ」


「へ?」


「暑いんだよ。今すぐ離れたら、明日お前が来るまで待っててやる」


 その言葉が先か離れたのが先か、スッと一歩身を引いたスズさんは、初めて会った時と変わらない顔で、



「はい、離れた! だから明日絶対だよ!?」


 なんて力一杯声を出し、わたしに振り向くとやっぱり無邪気な笑顔を見せた。

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