――“そこ”はお世辞にも素敵だとは言い難い場所だった。





 アスマさんに会った翌日。



 スズさんが通う学校の近くの駅で待ち合わせをして、連れて行かれたのは、異界のど真ん中だった。



 治安が悪いと聞いた事のあるその場所で、スズさんは電車を降りた。



“そこ”は電車を降りた時から既に雰囲気が違った。



 どこがどう違うのかというのを、何て表現すればいいのか分からないけど、たとえて言うなら夏晴れの空が何だかどんよりとした雨雲に見えるような場所。



 空気が違う。



 よどんでる。



 近くにいる人達から聞こえてくる話し方が酷く乱暴で、聞いてるだけで気分が悪くなる。



 駅前はゴミや落書きだらけで、何の臭いだか分からない臭いがする。



 とてもじゃないけど治安がいいとは思えないその区域を、スズさんは特に気にする様子もなく歩き、



「ここ、あたしの地元」


 なるほどそれなら気にもしないだろうと、納得出来る事を口にした。



「あの……今日はどこに?」


「“巣穴”」


 わたしの質問に、当たり前のように答えただけど、それは“スズさんの当たり前”であって、“わたしの当たり前”ではない。



 異界の言葉を話されたところで、到底わたしに理解出来る訳もなく、



「えっと……“巣穴”というのはなんですか?」


 結局、そこから聞かなきゃならない。



 時間の無駄遣いだと思う。



 スズさんが“常識”をわきまえ、最初からこちらが分かるように話してくれれば、こういう時間の無駄はなくせるのにと心底思う。



 少し考えれば分かる事なのに、はなから考えようとしないから、こういう事になる。



 自分以外の人間に“何か”を投げかける時は、最低限の説明が必要なんだと――言ったところでスズさんは、きっと理解出来ないのだろうけど。



「えっとね、“巣穴”って“溜まり場”の事。あたしたち地元の“溜まり場”で、あたしたち以外は“巣穴”って言ってんのね? だから、あたしも“巣穴”って呼んでんの」


「……はあ」


 分かるんだか分からないんだか、理解しがたい説明をしたスズさんは、



「その“巣穴”に使ってるのがマサキさんの家。マサキさんの家族も住んでるんだけど、二階を“溜まり場”として使ってんの。家族の人は一階ね。あ、家の人に挨拶とかしなくていいよ? しても返事ないし。気にしなくていいからね!」


 更に理解しがたい事を口にする。



 つまりは他人の家を勝手に“溜まり場”として使った挙句あげく、その家の本当の住人の事は気にするなと、そんな非常識な事を平気で口にする。



 挨拶をしても返事がないという事は、どう考えても相手が怒ってるという事なんじゃないだろうか。



 なのに、気にしないでいいというのは、どういう了見なんだろう。



 異界ここじゃわたしの世界の常識は当てはまらないんだろうか。



 これが異界の常識なんだろうか。



 それにしてもスズさんの言う事は、常軌じょうきいっしてるように思える。



 だけどそれよりももっと気に掛かる事がある。



 スズさんの話の通りに行くとなると、わたしはその“巣穴”という所へ連れて行かれる訳で、今向かっているのはこんな区域を“地元”とする人達が集まる――。



「あ、あの!」


「うん?」


 ハタと足を止めたわたしに、数歩進んだスズさんは足を止め振り返ると、きょとんと大きな目をこちらに向け、「どうかした?」と首を傾げる。



 どうして分からないんだろうかと思う。



 そりゃ確かにスズさん自身はここを地元として育ったんだろうけど、区外の学校に行ってるなら、ここがどういう場所なのかくらいは理解してるはずなのに。



 わたしのような“普通”の人間には、怖いとしか思えない。



 行って何をされるって事じゃないかもしれないけど、何もされない保障はない。



 だから。



「わた、わたし、そ、そんな所には行けません」


 そう言うしかなかった。



 断固拒否をするしかなかった。



 それが姉の為なんだとしても、そんな所に行く勇気がわたしにはなかった。



 どんな所なんだろうという好奇心が全くない訳じゃない。



 でも時に好奇心というものは命取りになる。



 些細な好奇心から人生が一変するなんて事、珍しい話じゃない。



 姉もまた、そうして人生が一変してる。



 勉強ばかりで嫌になって、どんなものなんだろうと好奇心からクラブに行き、そこで出会った男と、これまた男とはどういうものなのかという好奇心で付き合い始めた。



 何でもかんでも本能のおもむくままに行動するのは間違ってる。



“理性”というものは、そういう面を抑える為にある訳で、結局姉は理性を持ち合わせてはいなかったという事になる。



 結果、こんな事態を招いた。



 わたしがこうして行動を起こさなきゃいけなくなった。



 でもこれ以上の事は――そんな“巣穴”だか“溜まり場”だかと言われる所に行く事はご免だ。



 ミイラ取りがミイラになる。



 わたしはミイラになるつもりはない。



 だけど、スズさんにはやっぱりわたしの思いなんて理解出来ないらしく、



「え? もしかして他に用事ある?」


 素っ頓狂な事を聞いてきた。



 正直、酷く脱力した。



 少し考えればわたしが言うまでもなく理解出来るだろうと思うのに、やっぱり“考える”という事をしないスズさんに脱力した。



 こちらからは言い辛い事だから、察して欲しいと思ったのに、そういう思惑おもわくすらこの異界の住人には通用しない。



 どう言えばいいんだろう。



 どう言えば角が立たないだろう。



 スズさんの気分を害さないようにして、尚そこへ行かなくてもいいようにしなければと思考錯誤していた――時。



「オイッス! オイッス!」


 バリバリと、耳を塞ぎたくなるような不快な音と共に、妙に軽い調子の男の人の声が聞こえた。



 直後にキッとブレーキ音が鳴り、バイクが止まる。



 丁度わたしとスズさんの間で止まったバイクの上には、何だかやけに派手めな男の人。



「なあにやってんだあ、スズ」


 ヘルメットも被らず突然現れたその人は、バイクのエンジンを切りもせず、バリバリという音に負けないくらいの大きな声を出し、



「え!? 聞こえない!」


「なあにやってんだよ」


 大袈裟に耳を塞いで大声で聞き返すスズさんに、顔を近付け言葉を繰り返した。



「ええ!? 何言ってんのか分かんない!」


「だから、なあにやってんだって」


「ええ!? さっぱり聞こえない!」


「な、に、を、し、て、や、が、る」


「ええ!? 全く聞こえない!」


「ス、・ズ、ブ、サ、イ、ク」


「ええ!?  ス、ガ、ブ、サ、イ、ク?」


「聞こえてんじゃねえかよ! そして俺は格好いい!」


 じゃれ合い――なんだろうか。



 よく分からないけど目の前のふたりは、とても仲睦まじい感じで、喩えて言うなら仲のいい兄妹という感じに見える。



 でも兄妹ではないと思う。



 逆に本当の兄妹なら、こんなに仲良くはない。



 姉がいるから分かる。



 身内でこんなじゃれ合いはしない。



 仲が悪いという訳じゃないけど、どこか目障りだと思ってる部分がある。



 それはきっとずっと一緒に生活してきた所為なのかもしれない。



 いくら血縁と言えど何年もずっと一緒にいると、わずらわしく思ってしまう。



 それは兄弟姉妹だけに限らず、親に対しても――。



「あ、イチコさん! これがスガ先輩!」


「これ!?」


 不意にスズさんがわたしに向けて発した言葉に、“スガ先輩”と紹介された男の人は、半分おどけたように目を見開き反論する。



 その紹介を聞き、やっぱりこのふたりは兄妹じゃないと、納得した反面少し残念な気もした。



 本当にこれくらいに身内で仲のいい人たちがいるなら会ってみたいと思う。



「え!? 聞こえない!」


「これって言ったか!?」


「ええ!? 聞こえない!」


「今、俺の事“これ”って言ったろ!」


「ええ!? さっぱり聞こえない!」


「ス、ズ、タ、ン、ソ、ク」


「ええ!?  ス、ガ、ブ、サ、イ、ク?」


「ブサイクって言ってねえだろ!」


「もう! スガ先輩バイクのエンジン切って下さいよ! うるさくてイチコさんとちゃんと話せない!」


 フッ――と、一瞬にして辺りが静まり返った。



 スズさんの一言に、スガ先輩はすぐにバイクのエンジンを切り、ようやくわたしの方へと視線を向けた。



 微かに眉根が寄る。



 ほんのわずかなその動きをわたしは見逃したりしない。



 見えない壁というものなんだろうか。



 そちら側とこちら側を隔てる、よそ者は受け付けないという意思を感じた気がした。



 でもそれは、



「スズの友達か?」


「うん。友達っていうか昨日話した人。アスマの」


「ああ、妹か」


 少し違う様子。



「妹か」と呟いたスガ先輩という人の顔が更に少しけわしくなったのを見て、何となく理由を察した。



 わたしが姉の妹だから――スズさんの好きなアスマさんの子を妊娠した女の妹だから――こうして壁のようなものを作るんだろうと思う。



 きっと説明する前にわたしがどういう存在かは薄々気付いてたんだろうと思う。



 これが異界の仲間意識というものなんだろうか。



 自分の“仲間”を傷付ける可能性がある存在をうとましく思うというのは、異界独特のものなんだろうか。



 わたしの世界では、そういうものがないように思う。



 少なくてもわたしは、そういう経験をした事がない。



 とりあえず挨拶だけはしておいた方がいいだろうと、「こんにちは」と言ったわたしに、スガ先輩は「あー、どうも」と少し含みのある言い方をした。



 だから完全にこの人がわたしに対していい印象を持っていない事は理解出来た。



 でもそれは当然だと思う。



 仕方ない事なんだろうと思う。



――けど。



「あ、あのね、スガ先輩! 違った! 違うんだって! アスマの子じゃないんだって!」


 どういう訳かスガ先輩の態度の異変には気付いたらしいスズさんが、慌ててそう口を挟むと、スガ先輩はスズさんに目を向け、「違っただとお?」と右眉を上げた。



「うん。違うってアスマが言った!」


「マジか」


「うん、マジ!」


「アスマさん嘘吐いてんじゃねえだろうな?」


「それあたしも思ったんだけど、本当に本当だって!」


「マジか」


「うん、マジ!」


「マジなのか」


「うん、マジなの!」


「マジでマジなのか」


「うん、マジでマジなの!」


「マジでマジのマジなのか」


「うん、スガ先輩しつこい!」


「つーか、なら何で一緒にいんだよ?」


「へ?」


「違ったんだろ? なら何でスズがこの子と一緒なんだ?」


「あ、それはアスマが今日マサキさんの家に来るらしくて、イチコさん連れて来いってアスマが言ったから」


「アスマさんが?」


 スッと。



 スズさんの言葉を聞き、再びわたしに向けられたスガ先輩の目は、明らかにさっきまでのものとは違った。



 さっき感じた敵意のような、疎外感のようなものは一切なく、



「だったら、こんなトコでチンタラしてねえでさっさと行こうぜ。な、イチコちゃん」


 にんまりと顔に満面の笑みを作り、バイクから降りた。



「え?」と聞き返したわたしの言葉を、スガ先輩には聞こえなかったらしく、スズさんに目を向け直し「キビキビ歩けい!」とスズさんの頭を軽く叩くとバイクを押して歩き始める。



「待って!」と、スガ先輩に笑ってついて行くスズさんを、呆気に取られて見ていたわたしに。



「おーい! 早く来いよお!」


 スガ先輩は振り返り、そう笑った。



 わたしが拒否していた事なんてスズさんは忘れてるようだった。



 スガ先輩とじゃれ合いながら、前へと進んでいく。



 もうどうしようもなかった。



 半ば強制的にわたしは、歩を進めるしかなかった。



 前を歩くふたりに連れられ辿り着いたのは、同じような造りの家が並ぶ建売住宅街の一角。



 何十年も前に建てられたんであろうその場所は、お世辞にも素敵だとは言い難い場所だった。

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