敗北感
—―スズが方向音痴でマジで助かった。
スガ先輩がそう言った意味が分かった。
—―マジ、バカで良かった。
スガ先輩のその言葉がご
相当方向音痴なあたしは、アスマに会ったあの場所が、半年間――少なくとも二十回以上は――通ってた彼氏の家の近くだなんて全く気付いてなかった。
地元って言っても広さはそれぞれに様々だけど、それでも時間と距離を考えれば分からない事もなかった。
……のかもしれない。
だけどあたしは全く分からなかった。
あの場所が“元”彼氏の地元だなんて微塵も思ってなかった。
多少なりその可能性があるって分かってればこんな事にはならなかったのに。
ううん。よくよく考えれば、そんな感じはあった。
“元”彼氏は最初からあたしに声を掛けたくて近付いたんじゃなくて、地元の先輩であるアスマを見掛けて無視出来ないから近付いて来ただけかもしれない。
っていうか、その可能性は大。
アスマに挨拶したのも、あたしの連れだと思ったからとかそういう次元じゃなくて、地元の先輩だから挨拶しない訳にはいかなかったってだけ。
むしろあたしへの挨拶の方がどうでもよくて、アスマと一緒にいたから無視する訳にもいかなかったってだけの事。
なのにあたしはベラベラと、余計な事を喋り連ねた。
今更気付いて後悔しても遅い。
遅すぎる。
言った事を取り消す事なんて出来ないし、「冗談でした!」っておどけるなんて寒すぎる。
だからって取り繕う方法が分からない。
この場をどう収めればいいのか分からない。
だから呆然と立ち尽くすしかなくて、
「スズ……」
“元”彼氏の哀れんだような声が、あたしを地獄に突き落とした。
隣には悪魔。
正に、地獄。
未だ異界の使者の腕を両腕で掴んだまま、正面にいる“元”彼氏を真っ直ぐに見る事なんて出来ず、徐々に下降していく視線は、完全なる敗北を意味していて、
「ま、まあ、あれだ! アスマさんとそうやって親しくしてるだけでもすげえよ!」
“元”彼氏の明らかに気を遣ったその言葉に、惨めさが最高潮になって泣きそうになった。
――スガ先輩がアスマの住んでる場所を教えてくれてれば、こんな事にはならなかったのに!
なんて、恨みの
けど。
そんなあたしの声を遮ったのは、誰でもない隣にいる悪魔で、
「付き合ってんだよ」
聞いただけで口許に嫌な笑いを作ってるって分かる声が聞こえた。
「へ?」
素っ頓狂な声でそう聞き返したのは、あたしじゃなく“元”彼氏。
あたしは驚きに声も出せず、ただ顔を上げただけ。
見上げたそこには――極上の――笑みを浮かべた悪魔がいた。
「な、何言ってんですか、アスマさん! アスマさん誰とも付き合ったりしないじゃないですか! びっくりさせようなんて人が悪いですよ、人が!」
悪魔のアスマに向かって「人が悪い」なんて言っちゃう“元”彼氏は、笑ってるけど分かりやすいくらいに動揺してる。
そんな“元”彼氏を嘲笑うかのように見つめたアスマは、
「お前、こいつとヤってねえだろ?」
あたしを指差しとんでもない事を言い出した。
「はい!?」
またしてもそう聞き返したのは“元”彼氏で、やっぱりあたしは驚きに声も出せずにアスマを見上げてた。
「ヤらせてもらえなかったろ」
何でその事知ってんの!?って口に出しそうになったあたしは、何とかその言葉を呑み込んで、
「な、何ですかそれ……」
急に弱々しい声を出した“元”彼氏に視線を向けると、何でかあたしが凄く睨まれた。
「ヤってねえから分かんねえんだよ」
「……何がですか?」
「めちゃくちゃすげえぞ、こいつ」
「え?」
「上物だ」
「え!?」
「だから付き合ってんだよ、こいつと」
「う、嘘でしょ?」
半信半疑って感じの声を出した“元”彼氏の耳に、アスマは
「向こう見てみろ」
ボソッと囁く。
「向こう?」
「後ろだ、俺の後ろ。噴水の前にさっきからずっとこっち睨んでる女がいるだろ?」
「はあ……」
「手え切ったんだよ。こいつの為に」
「マ、マジですか!?」
“元”彼氏のその問いにアスマは何も答えなかった。
だけど代わりに少し離れ、作り物のような綺麗な顔に艶やかな笑みを浮かべる。
鳥肌が立った。
背中に電流でも走ったかと思うくらい、背筋が痺れて一瞬息さえ出来なかった。
それはあたしだけじゃなく、男の“元”彼氏すらもそうだったようで、男までもを魅了するらしいアスマの悪魔の笑みを単純に凄いと思った。
「お前も残念だったな」
「は?」
「もうちょいテクがありゃ、こいつとヤれたかもしれねえのになあ?」
「べ、別に俺は——」
「仕方ねぇか。しょうもない場数しか踏んでねえんだろ」
「――はい!?」
「数ヤりゃいいってもんじゃねえんだよ。ロクでもねえ女としかヤってねえ証拠だ。折角の上物逃すくらいだしな」
「…………」
鼻で笑ったアスマに対して、“元”彼氏は苦虫を噛み潰したような表情をつくる。
正直スッとした。
小躍りしたくなるくらいすっきりした。
まさかアスマが嘘吐いてまで庇ってくれると思ってなかったから、今度は逆に嬉し涙が出そうになった。
……のも束の間。
悔しいとか惨めだって気持ちは、あたしだけが抱くものじゃない。
当然の如く、あたしの目の前でバカにされた“元”彼氏も、そういう感情を抱いたらしい。
でもその矛先を、先輩であるアスマに向けられない“元”彼氏は、ちょっとだけバカにしたような目でこっちを見ると、あたしとの距離を縮めてくる。
思わず後ずさりしそうになったあたしの耳元に、“元”彼氏は二度と見たくないと思っていたその顔を近付け、
「スズ……気を付けろよ?」
コソコソと負け惜しみを口にした。
「な、何を?」
「そりゃ今はアスマさんはスズに夢中になってるかもしれねえけど、それは今だけだ」
「はあ?」
「どうせすぐ飽きられるって言ってんだよ」
「はい!?」
「泣かされないようにな」
「そ、それあんたが言う!?」
「俺はモトカレとして、忠告してやってんだよ」
「忠告!?」
「俺の優しさだ」
「はあ!?」
「アスマさんがひとりの女と長続きする訳がねえ」
「そ――」
「そりゃそうだ!」
聞こえてたらしい“元”彼氏の言葉に、否定するどころか肯定して大笑いしたアスマは、それでも尚余裕の面持ちで“元”彼氏を見つめ、
「そうだとしても、お前みてえなドジは踏まねえよ」
ばっさりと嫌みを言った。
アスマの言葉に引き
アスマにペコッと頭を下げ、あたしに「じゃあな」と言った“元”彼氏は、逃げるような足取りで噴水の方へと走り出した。
そんな“元”彼氏の後ろ姿を眺めながら、
「小物すぎて相手になんねえな」
バカにしたような笑いを含みそう口にするアスマの腕に腕を絡めたまま、あたしは言われた言葉を頭の中で
—―俺は意地悪じゃなく、優しさで言ってんだぞ。
—―俺の優しさだ。
優しさ。
小さい頃から「人に優しくしなさい」って両親や先生に言われてきたけど、一体何をもって「優しさ」っていうのか、今回本当に分からなくなった。
優しさって
優しさのつもりだったら、何をしてもいいって事?
自分じゃ優しさのつもりでも、相手にはそうじゃない場合もあって、そういう時「優しさ」ってただの押し売りになる気がする。
“元”彼氏の言葉はさておき、スガ先輩の言う「優しさ」はまだ分かる。
あたしを心配してくれてるからこそ、そう言ったんだろうって思うけど、その「優しさ」にありがたみを感じなかったら、それって一体何なんだろう。
安易に「優しさ」なんて口にしたりするけど、それってどういうものなんだろう。
「おい、いつまで腕組んでんだ?」
放心状態で考えていたあたしは、アスマの声に我に返り、
「あっ、ごめん」
慌ててその腕から両手を離すと、アスマの顔を見上げた。
「何だよ?」
「どうしてあたしが“元”彼とヤってないって分かったの?」
「ん? ああ、勘だな」
「勘!?」
「お前処女っぽいし」
「処女っぽい!? 何でそんな事分かんの!?」
「言う事が処女臭え」
「はぁ!?」
「処女膜の匂いがプンプンする」
「な……! あ、あたしだって途中まではシた事あるもん!」
「途中まで“しか”出来なかったんだろ?」
「な……!?」
「まあ、正解なんじゃね?」
「……正解?」
「あんなしょうもない男に、処女くれてやる事はねえだろ」
「……うん」
「大事に取っとけばいいんじゃねえか?」
「大事に……?」
「本当の意味でバージンロード歩けりゃ、それはそれですげえだろ。って、俺が言うとシャレになんねえか」
どうしてその言葉で笑ってるのか分からないけど、アスマは凄く
そんなアスマを見て、どうしても、どうしても聞きたくなった。
優しさの欠片も持ち合わせていないような悪魔に。
なのに実は優しいのかもって思わせてしまうアスマに。
「ねえ、アスマ」
「んあ?」
「優しさって何?」
疑問に思った事を聞きたくなった。
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