不運


「ス、スズ」


「ん?」


「な、名前! あたしの名前、スズ!」


 顔を上げたあたしが口にしたのは、この場には似つかわしくない自己紹介で、



「ああ、そうか」


 アスマもあたしと同じくらい似つかわしくなく、普通に納得する。



 似つかわしくないと思うのは状況が状況だからで、ほんの数十秒前までアスマと一緒にいた女の人がこっちを見てる。



 普通なら声なんて掛けないと思う。



 仮令たとえ友達だったとしても、この場合は素通りすると思う。



 だけどアスマはそんな事お構いなしって感じで。



 むしろさっきまであたしが見てた修羅場のような光景なんてなかったかのような素振りで、



「何探してんだ?」


 その人間味を感じないほどの綺麗な顔を無造作に近付け、鞄の中を覗いてきた。



「何だよ、お前。汚ねえ鞄だな」


「う、うん……」


「教科書もノートも入ってねえじゃねえか」


「そ、それは学校に……」


「そんな事してっから頭悪いんだよ」


「う、うん……」


「学生は勉強しろ、勉強」


「そ、そだね……」


 余りにも普通の態度のアスマに気後れしていると、アスマは不審って感じの目を向けてくる。



 その上、



「何キョドってんだ?」


 目以上に不審って感じの声を出す。



「キョ、キョドってるっていうか……」


「何だよ?」


「ア、アスマが泣かせたの?」


「何を?」


「後ろの人……」


 遠慮しながら、あたしがアスマの後方にある噴水の方を指差すと、アスマはあたしの指先を見るようにして振り向き「ああ、アレか」と小さく呟く。



 そしてすぐにこっちに向き直ると、



「勝手に泣いたんだ。知らねえ」


 面倒臭そうにそう言って、首を左右に揺らし音を鳴らした。



「そっか……」


 何一つ納得してないのにそうとしか答えられなかったのは、アスマの声が物凄く低かったからで、変にしつこく質問して怒りを買ったら、あたしまで泣かされるんじゃないかと危惧したから。



 あたしは多分、アスマにあんな目で見られただけで泣いちゃうと思う。



 あんな冷たい目で見られて平静でいられるほど、あたしってば強くない。



「お前こんなとこにひとりで来たのかよ?」


「え!?」


「寂しい奴だな」


「た、たまたまだよ! 今日はたまたまひとりなの!」



 別にムキになる必要はないけど、寂しい奴だなんて思われたくなかったから、大きな声で言い返したら、「元気そうじゃねえか」って笑われた。



 思わずその妖艶な笑みに見惚れてしまった事は言い逃れ出来ない。



 だけどそれをアスマ本人には気付かれたくなくて、すぐに視線を駅前に向けたあたしは、



「――あ」


 本日二度目となるその言葉を呑み込む羽目になった。



 ここまで来ると不運でしかない星の下に生まれたっていうよりほかない。



 今日出掛けようと思った自分を心底恨んだ。



 数十メートル向こうにある駅から、人混みをこっちに向って歩いてくる“元”彼氏の姿に、倒れてしまいそうなくらい激しい眩暈めまいがした。



――あたしに絶対気付かないで!



 なんて願いが通じる訳がなかった。



 だってあたしの隣には、恐ろしく目立つ男がいる。



 もし今頭上をUFOが飛んでたとして。それに気付かない人でも、この男には気付く。



 行き交う人がアスマに視線を向ける。



 アスマはまるでそれが当然だと言わんばかりに、さっきまでのように威風堂々とそこにたたずむ。



 少しだけでいいからコソコソしてくれればいいのに、むしろ多少コソコソしてようやく一般人と同じくらいの存在感になるのに、アスマは惜しみなくその存在感をかもし出し、



「お前さ? 飴か何か持ってねえか? 喉が痛えんだよ。風邪かもしれねえ」


 悠長に話し掛けてくる。



 だけどあたしの視線はもう“元”彼氏に釘付けで、アスマの言葉に反応する事も出来なくて、



「何だよお前。一体何見て――」


「あ……」


 アスマがあたしの視線の先を見ようとしたのと、“元”彼氏があたしに気付いて指差し短い声を出したのは、ほぼ同時だった。



「ああ?」


 すっかり自分が指差されたと勘違いしたらしいアスマは、威嚇いかくするような声を出し目を細める。



「アスマ! 違う! あたしの“元”彼!」


 慌てて小声で喚いたら、アスマは「モトカレ?」って呟いた後、「ああ! あれか! 呪い殺そうとした相手か!」と何故か楽しそうな声を出した。



「呪いじゃないってば!」


「ありゃすげえ呪いだ。あれ食って以来どうも体調が悪い」


「そんな訳ないじゃん!」


「体から焦げた匂いがする」


「嘘だもん!」


「嘘じゃねえって。いでみるか?」


「え!? 何!? 何でジーパンのファスナーに手え置いてんの!?」


「ちょっと嗅いでみろって」


「やだやだやだ! やめて! 変態! 逮捕されるよ!?」


「いいから嗅いでみろって」


「全然よくない! 何であたしがこんなトコで――」


「どうも」


 突然会話に入ってきた余所余所よそよそしい“元”彼氏のその言葉に、ビクッと体が震えたのは、アスマと言い合ってた間すっかりその存在を忘れてたからで、



「こ、こんにちは……」


 別れ方が別れ方だった上に、あれ以来初めてのご対面で、どう言っていいのか分からなくて、あたしも妙に余所余所しい返事になってしまった。



“元”彼氏はアスマがあたしの連れだと思ったのか、ペコリと小さく頭を下げ「どうも」と歯切れ悪く挨拶する。



 だけどアスマは挨拶し返しする事も、軽く会釈をする事もなく、あたしと“元”彼氏を見比べて意地悪な笑いを口許に作った。



「元気……か?」


 あたしに視線を戻した“元”彼氏の、遠慮がちなその言葉に、教訓を得た気がした。



 絶対に元恋人に会っても、「元気か?」って言葉だけは言っちゃいけない。



 浮気が原因で別れたなら尚更、死んでも口にしちゃいけない。



 特に浮気した側に心配されるほど惨めなものはない……!



 という、仮令それが気遣いとか、優しさっていうものだったとしても、そんなものはクソ食らえって思うくらいの今後の為になる教訓を得た。



――あんたにだけはそんな心配されたくないけどね!



 言ってやりたいその言葉を呑み込んで、



「うん。……そっちは?」


 そう答えたあたしはかなり大人だと思う。



 だけど怒りでちょっと声が震えちゃったところは、まだ子供らしさが残ってる証だろう。



「ああ……うん。元気にしてる」


「そっか……」


「……うん」


「…………」


「…………」


 全く会話が弾まなかった。



 弾む訳がなかった。



 正直何が目的で声を掛けてきたんだろうって不思議に思うほどだった。



 でも居心地が悪いのは“元”彼氏も同じようで、ここを離れるタイミングを見計らえないのか、あたしとアスマをチラチラと交互に見る。



 気まずかった。



 気まずすぎた。



 だからどうにかこの場を繋ぐ会話をしようと、



「あの女の人は? 元気?」


 思って出たのは思いっ切り嫌みに聞こえる言葉だった。



 そんなつもりは更々なくて、ただ何を話せばいいのか分からなくて、最近のあたしと“元”彼氏の話題なんて“それ”しか思い付かなかったってだけ。



 しまったと思った。



 軽はずみな事を口にしたと後悔した。



 だけど後悔したのは“元”彼氏に嫌みっぽい事を言っちゃったって事じゃなくて、



「ああ。あいつも……元気。これから会うんだけど……」


 このどうしようもないバカの、人の気持ちが分からないどうしようもないクズの、おろかな返答を聞く羽目になった事に後悔した。



 普通言う!?



 そこは嘘でも「別れた」って言うもんじゃない!?



 てか、そんな事言われちゃったら、あたしの方が浮気相手だったみたいじゃん!



 —―って、え?



 そうなの?



 あたしの方が浮気相手だったの?



 ……え?



「そ、そっか。良かったね」


 相当動揺しちゃったあたしのその声は完全に裏返ってて、それでもそれを取り繕う事が出来ないくらい頭の中が疑問符だらけで、



「……うん」


 なんて返事しちゃう“元”彼氏の言葉に、本当ならブチ切れてもいいはずなのに、



「…………」


 残念ながらあたしは何一つ言えなかった。



 だけどあたしのプライドは相当傷付いたらしい。



 こんな屈辱くつじょくに黙って耐えれるような根性は持ち合わせてなかったらしい。



「あ、あたしも!」


「え?」


「あ?」


 勢い良く、隣に突っ立ってたアスマの腕に両腕を掛け、



「あたしも彼氏出来たんだ!」



 怪訝な声を出したアスマを無視して、ポカンとする“元”彼氏に「紹介しまあす」って感じの態度をとってしまった。



 こういうのを見栄という。



 そして浅はかな行動ともいう。



 その両方の行動をとったあたしは、アスマが話を合わせてくれますようにって祈った。



「は? スズ何言ってんだ?」


 信じられないって声出した“元”彼氏の事はどうでも良かった。



「付き合ってんの!」


 そう言いながらアスマは何も言わないでって願ってた。



「…………」


 あたしの祈りが通じたのか、ありがたい事にアスマは何も言わず、ただ黙ってあたしに腕を掴まれたまま、微動だにしなかった。



「バレンタインの次の日からなんだけどね!? 先輩に紹介されて付き合ったの! スガ先輩って覚えてる? あっ、知らないか! 紹介してないもんね!」


 アスマが黙ってるのをいい事に、聞かれてもない事をベラベラと話し始めたあたしは、さっきまで感じてたみじめさとか悔しさを払拭ふっしょくしようと必死だった。



「スズ、お前何言ってんだよ?」


「あっ、信じられない? そうだよね! そうかもしれない! だってこんな格好いい人があたしを相手するなんてねぇ?」


「スズ?」


「でもこれがマジなの! マジで付き合ってんだよね!」


「スズ、この人誰だか知ってんのか? アスマさんだぞ?」


「うん。そうそう。アスマ! アスマなの――って、え!? 何で名前知ってんの!?」


「スズ……」


「え……?」


「この人、俺の地元の先輩……」


「え!?」


「アスマさんは誰とも付き合ったりしねえよ」


「え……っと……」


「スズ……」


「…………」


「…………」


 仕出かしてしまった、後戻りは出来ない状態に、呆然としてしまった。



 時間よ戻れ!なんて心から願っても、そんな事は起きはしない。



 そんな不運なあたしの耳元に人の気配が近付く。



「バーカ」


 その甘い吐息をたっぷりと吹き掛け、呆れたように笑う悪魔の声が、頭の中で木霊した。

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