Devil


「こいつ俺の後輩で、スズっていうんです」


「後輩?」


 スガ先輩の紹介に恐々こわごわと頭を下げると、悪魔は少しだけ眉間にしわを寄せスガ先輩に向き直った。



「後輩って事は『巣穴』か」


「そうそう」


「で、何で『巣穴』がここにいんだよ?」


「アスマさんを紹介しようと思って」


「俺に紹介?」


「違いますよ。“に”じゃなくて、“を”」


 おどけるようにそう言ったスガ先輩を、アスマという名前の悪魔はいぶかしげに見つめる。



 あたしもその「を」と「に」の違いが分からなくてスガ先輩をしげしげと見つめたけど、スガ先輩は涼しげな顔をして、



「スズは俺が可愛がってる後輩なんですけど、昨日酷い目に遭っちゃって」


 わざとなのか何なのか「違い」の話には振れず、昨日あたしの身に起こったまさかの出来事を話題に出す。



「ちょ――」


「酷い目?」


 突然何を言い出すのかと、慌てて止めようとしたあたしは、悪魔の聞き返しに遮られ、止めるタイミングを逃した。



「彼氏の浮気現場に遭遇したらしくって」


「ほう」


「まあ、家に行ったら女と寝てたってくらいなんですけど」


「ふーん」


「だから、アスマさんを紹介しようと」


「何でそこで俺が出てくんだよ」


「“そんなのはまだマシだ”って意味で」


「ああ、なるほどな。だから俺“に”じゃなくて俺“を”か」


 納得したように口角を上げ、フッと鼻で笑った悪魔が再びあたしに視線を向ける。



 今の会話で全てを把握したらしい悪魔の瞳の奥が怪しげに光った気がした。



 背筋がゾクゾクとして、やけに息が上がる。



 ただ見られてるってだけなのに、首を絞められてるような息苦しさを感じる。



「あ、あのッ」


 息苦しさからしぼり出した声はとても乾いた声になってて、



「あ、あなたも酷い目に遭ったんですか?」


 口篭りながらもどうにか吐き出したあたしの言葉に、悪魔は――妖艶ようえんに――笑った。



 全身の毛が逆立ったのかと思うくらいゾワッとした。



 どうして笑われてるのかって事よりも先に、そのなまめかしさに目を奪われた。



「そっちの意味じゃねえな」


「……へ?」


 悪魔の持つ、周りを呑み込んでしまいそうな雰囲気に、半分ボーッとした頭で聞き返すと、悪魔はその妖艶さを更に増幅させ、



「俺は、酷い事をする側」


 囁くように言った。



「…………はい?」


 一瞬言われてる意味が分からなくて、きょとんとしたあたしを見て、スガ先輩と悪魔は示し合わせたように声を出して笑い始める。



 だけどあたしの耳には何故か、悪魔の笑い声しか聞こえてこなくて、



「あのな、スズ。スズに起こった事なんてのは、この人がやってる事に比べたら全然大した事ねえんだよ。むしろそれくらいで済んで良かったくらいに思った方がいい」


 笑いながら語るスガ先輩の言葉は右から左へと流れていった。



――つまり、何?



 困惑する頭に響く悪魔の笑い声。



 それを頭から追い出そうとしても、何故か居座り続ける。



—―俺は、酷い事をする側。



 だからそれはつまり……“元”彼氏側の人間って事?



 浮気したり、彼女と約束があるその朝に違う女と寝ちゃったりするって事?



 しかもそれより酷い事をするって言ってんの?



――え? そういう事なの?



 徐々に動き出した頭で考え付いた結論は、



「スズ。俺は今までこのアスマさんより女に酷え事する男に会った事ねえぞ」


 決して間違ってはいないようだった。



「そ、それって——」


「うん?」


「――それって、浮気ばっかりするって事?」


 話し掛けてくるのはスガ先輩なのに、あたしはこっちを見てない悪魔に言葉を投げ掛けた。



“元”彼氏と同じ分類の男だと分かったからか、敬語で話すのをやめたあたしに、悪魔の視線がゆっくりと戻ってくる。



 その動きすらなめらかで艶めかしい。



「浮気はしねえ」


「え?」


「つーか、出来ねえ」


「は?」


「特定の女を作らねえから、浮気なんてもんはしたくても出来ねえ」


 声のトーンは怒ってる訳じゃないのに、酷く冷たく感じた。



 雰囲気が不気味で悪魔みたいだとかじゃなく、コイツは本当の悪魔だと思った。



「特定の女は面倒臭えからな」



――脳が危険信号を出してる。



「ひとりの女に縛られなきゃなんねえ意味も分かんねえし」



――危ないって。この男は危ないって。



「遊びだったら飽きればすぐに手え切れば済むし、面倒臭え事言う女はさっさと捨てればいいだけだしな」



――なのに。



 心底そう思ってるのに。



「だからまあ、その彼氏にヤられた事はムカつくかもしれねえけど、俺に捕まる事に比べりゃまだマシだって思っとけよ」


 そう笑って、伸ばされた手が頭に触れた事を嫌だと思うどころか、触れられた所がジンッと熱く痺れるような感覚がした。



 なぐさめにしては最悪。



 忠告にしては最低。



 そう分かってるのに、あたしは何故か自然とうなづいてて、



「素直で可愛いじゃん」


 悪魔の言葉に魅了される。



 だからこそ、「悪魔」なのかもしれない。



 コイツの一挙手一投足全てに、人を惹き付ける何かを感じる。



 ううん。「人を」というよりは「女を」かもしれない。



 そういうのをフェロモンっていうんだろうか。



 なら目の前にいるこの悪魔は、フェロモンがダダ漏れしてるって感じなんだろうか。



「あの」


「ん?」


 意味もなく話し掛けたあたしの頭から、載せられてた手が離れていく。



 それを寂しく思った直後、駐車場に軽快な音が響き渡り、



「あっ、俺だ。ちょっと向こうで話してきます」


 音を立てた原因のスマホ画面を見たスガ先輩は足早にその場を離れ、必然的にあたしと悪魔はふたりきりになってしまった。



 相当電話の内容を聞かれたくないのか、スガ先輩はドンドン遠くに離れていく。



 いつしかその姿は豆粒ほどの大きさになって、スッと夜の闇に消えた――ように見えただけで、実際は角を曲がったらしかった。



「で、何?」


「え!?」


 スガ先輩が消えた方をボーッと見ていたあたしは、突然悪魔にされた質問に驚き顔を向けた。



 向けた目線の丁度先に、シャープなあごのラインがあって、そこをなぞって下に視線を滑らせると、白い首に形のいい喉仏が存在する。



「『何?』って……?」


 問われた内容を理解出来ず聞き返したあたしの目は、悪魔の首元に釘付けだった。



「さっき何か言い掛けたろ?」


「え?」


「言い掛けたろ?」


「あ……うん。あの……その……」



 特別話したい事があった訳じゃなく、勝手に言葉が口から出たって感じだっただけに、改めて聞かれても何を言えばいいのか分からず、



「ひ、酷い事ってどんな事すんの?」


 とりあえず何かを言わなきゃと思って口から出たのは、本気で聞きたい訳でもない質問だった。



 一瞬驚いたように目を見開いた悪魔は、それでもすぐに口許に笑みを戻し、あたしを見据えながらその場にしゃがみ込む。



「どんなって言われてもなあ」


 勿体もったいつけるようにそう呟き、右手をブルゾンのポケットに入れ、



「お前が思う酷い事ってどんな?」


 半分笑いながら質問して、ポケットから出してきた白い手には、外国の煙草が掴まれてた。



「あ、あたしが思う事?」


「ああ」


 ポンポンと煙草の箱の頭を叩き、器用に一本だけ飛び出させた悪魔が、それを口に咥えながらあたしをチラリと上目遣いで見る。



「か、彼女いるのに浮気するとか」


「うん」


「二股とか平気でしちゃうとか」


「うん」


「嫌がってんのに無理矢理ヤっちゃうとか」


「そりゃ犯罪だろ」


「じゃ、じゃあ縛ったり!」


「そりゃ個人の趣味の問題だ」


 フッと小さく鼻で笑い、ライターに火を点けた悪魔の顔が小さな炎に照らされて闇の中に浮かび上がる。



 あたしはその横顔を、綺麗――だと思ってしまった。



 ライターの火が消えて、闇に煙草の火種だけが浮く。



 それが小さな火の玉みたいで、



「まあ、お前が考えるような『酷い事』は大抵してるな」


 悪魔の声が異界からの声に思えた。



「あ、あたしが考えるような事?」


「ああ」


「あたしが何考えるか分かるの?」


「何となくは」


「な、何で分かるの?」


「何でってお前、頭悪そうじゃん」


 意地の悪そうな小さな笑い声が脳に響く。



 目の前にいる悪魔の、闇に浮かぶぼんやりとした輪郭が幻のように思える。



「腹減ったなあ」


 耳につく低いその声に、数秒反応出来なかったのは頭がボーッとしてたからで、



「チョ、チョコレートならあるよ?」


 慌ててそう言いながら、昨日からずっと手提げ鞄に入ってる“元”彼氏へのバレンタイン用のチョコレートを取り出した理由も、頭がボーッとしてたからだと思う。



 あたしなりに綺麗にラッピングしたチョコレートの箱を見て、悪魔が驚いたように目を見開いた。――ように見えた。



 その表情を見て、「こういう物」をあげようとするのは失礼になるのかと焦った。



 一応“元”だけど彼氏の為に作った物だし、違う人に渡そうと思って作った「本命チョコレート」をあげるっていうのは、貰う側からしても気を遣うし、やっぱり迷惑なのかもしれない。



 だから。



「こ、これで良かったら。どうせ捨てるしかないし」


 言い訳するみたいに慌ててそう言い加えたけど、「捨てる物」をあげようとした事が逆に失礼になるのかもって直後に焦った。



 だけど悪魔は口許に笑みを作り、ゆっくりとその手を伸ばすと、



「んじゃまあ、ありがたく」


 チョコレート以上に甘く、妖艶な雰囲気を纏ってあたしの手からチョコレートの箱を受け取った。



 吸ってた煙草を足元に落とし、しゃがんだまま器用にその火を踏み付けて消した悪魔は、ガサゴソと丁寧とは言いがたい手付きで包装紙を破いてく。



「も、もしかして、チョコレートって食べ飽きた?」


「んあ?」


 何となく間がもたなくて口にしたあたしの言葉に、悪魔は開けた箱からトリュフチョコレートを取り出し、それを口に放り込みながらあたしに目を向けた。



「チョコレート。いっぱいの女の人と付き合ってんなら、昨日いっぱい貰ったでしょ?」


「一個も貰ってねぇよ」


「……一個も?」


「あぁ」


 モグモグと、あたしのチョコレートを食べる悪魔が「甘え」と呟く。



「な、何で一個も貰ってないの?」


 そしてあたしのその言葉に目を細め、



「気持ち悪いだろ」


 形のいいその唇を動かす。



「……へ?」


「呪いとか掛けられてそうだからな」


 悪魔は笑いながらそうのたまり、チョコレートをもうひとつ口の中に放り込んだ。

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