きっかけ


「ぎゃはははははははは! そりゃ最悪だわ! 浮気現場に遭遇って!」


 耳が痛くなる声に、思わず眉をひそめた。



 だけどそれは部屋に響き渡る大きな声にというより、その内容に耳が痛くなったから。



「ちょ、ちょっとアサミ先輩ッ! 声が大きいですって!」


 周りを気にして10帖程の部屋を見回すと、そこにいる全員がこっちを見てる。



「何事だ?」と言わんばかりのみんなの視線から、あたしは逃げるように目の前にいるアサミ先輩に顔を戻した。



 日曜の午後。



 ……バレンタインデーの午後。



「溜まり場」と称されるこの部屋には、地元の先輩や同級生や後輩がつどってる。



 曜日も時間も関係なく、年がら年中誰か必ずここにいる。



 部屋のあるじがいようがいまいが関係なく誰かがいる。



 だからあたしは「あの後」すぐにこの部屋にやって来た。



 ひとりじゃ余りにも虚しすぎて、やり切れない思いをどうする事も出来ず、悔しいとか悲しいとかって感情ももちろんあるけど、それよりも腹立たしい気持ちが先行して、



――誰かに愚痴りたい。



 そう思ったからここに来た。



「それで? その後どうした?」


 目の前の、沢山いる先輩の中でも一番仲の良いアサミ先輩は、人の不幸を心底楽しげに笑いながらそう聞いて、



「その後って何ですか?」


 半分不貞腐れてあたしが答えると、「『何してんのよ!』って叫んだ後に決まってんじゃん」と更に楽しそうに口許をゆるめる。



 何かを期待してるような瞳はキラキラと輝き、まるでクリスマスプレゼントを待つ小さい子供のようだと思った。



「別にどうもしてませんよ……」


「は?」


「どうもしてませんって……」


「一発殴ってやんなかったの?」


「そんな事しませんよ」


「相手の女にも何も?」


「してません」


「じゃあ、その場をどうやって収めたのよ」


 あたしの答えにアサミ先輩は情けないって感じの溜息を吐き出し、明らかに面白くないって表情して、床に置いてあった缶コーヒーに手を伸ばす。



 爪に綺麗に塗られたピンクのネイルが、缶コーヒーの青い柄と同調して、何だかやけにえて見え、色っぽく思えた。



「収めたっていうか……彼氏が目を覚まして訳の分からない言い訳始めたから、『別れる』って言って帰ってきました」


 ボソボソと歯切れ悪くその後の展開を話すあたしに、アサミ先輩はあからさまに「何それ、つまんない」と口に出す。



 でも別にあの事は、アサミ先輩を楽しませる為に起こった出来事じゃないから、「つまんない」って言われても正直困る。



 それに結構ああいうのは、想像と現実だと違ったりする。



 頭の中で考えている事が、必ずしも現実にそのまま出来るって訳じゃない。



 あたしだって過去に友達と「彼氏が浮気したらどうする話」をした事がある。



 その時は確か「殴るかも」とか言ってた気がする。



 更には「相手の女も殴っちゃう」とか意気揚々と言ってた気がする。



 だけど現実その現場に居合わせてしまうと、結局何も出来ないものだと今回知った。



 例えばこれが「スズの彼氏浮気してたよ」って人伝ひとづてに聞いた話だったとしたら、きっと怒鳴ったり泣き喚いたり、何なら殴ったりしたのかもしれない。



 だけど行き成り現場を見てしまうと、怒りとか悲しみよりもその衝撃が大きすぎてまず頭が働かない。



 ワンクッションあるかないかって結構重要なものらしい。



 だからこうして時間差で、



「マジムカつく! 殴れば良かった!」


 腹が立ってくるんだと思う。



「今から殴ってくれば?」なんて、アサミ先輩が楽しそうに笑うのには理由がある。



「その言葉」は言われなくてもちゃんと分かってる。



—―だから言ったじゃん。ロクな男じゃないって。



 きっとアサミ先輩は、そう言いたいに違いない。



 言う事はなくても絶対に心の中でそう思ってる。



 高校一年の夏休みにナンパされて知り合った彼氏……じゃなく“元”彼氏と、付き合い始めた当初から、アサミ先輩には「やめときな」って散々言われた。



—―ナンパ男みんながみんな悪いって訳じゃないけどさ。あれはどう見てもダメでしょ。ロクな男じゃないって。



 口癖のようにそう言ってたアサミ先輩の忠告を、無視して付き合い続けてたのはあたし。



 だからアサミ先輩が何を言いたいか分かってる。



 それを今言わないのは、アサミ先輩の優しさなんだって事も分かってる。



 分かってるから、



「アサミ先輩、何とかして下さいよお」



 その優しさに甘えた事を言っちゃったりする。



「自分でどうにかしなよ」


「もう会いたくもないですよお」


「なら犬に噛まれたとでも思って忘れる事だね」


「犬に噛まれた方がマシですよ。ここまでムカつかないもん」


「そりゃそうだね」


 ケケケ――と、下品な笑い声を出したアサミ先輩は、フッとあたしの後方にある部屋のドアの方へと視線を向け、「うるさいの来たよ」と苦笑混じりに声を出す。



 その直後。



「オイッス! オイッス!」


 バンッとドアが勢いよく開く音と共に、低く騒がしいスガ先輩の声が聞こえ、振り返ったあたしはすぐにスガ先輩と目が合ってしまった。



「おお、スズ! どうした、スズ! バレンタインデーにこんなトコで何してる!」


 ドタドタと大きな足音を立てて近付いてきたスガ先輩は、ドカリとあたしの隣に腰を下ろして「よお」とアサミ先輩に軽く挨拶する。



 そのスガ先輩に同じように「よお」と笑って挨拶をしたアサミ先輩は、騒がしいスガ先輩に「向こうに行け」とは言わない。



「騒がしい」と文句を言いながら、それでもアサミ先輩がスガ先輩を心底邪険に扱わないのは、ふたりが幼馴染だから。



 当人たちいわく、ふたりは「腐れ縁」ってやつらしい。



 アサミ先輩と仲良くなった中学生当初、あたしはてっきりアサミ先輩とスガ先輩は付き合ってるんだと思ってた。



 それくらいふたりは何だかんだ言って仲が良くて、よく一緒にいる。



 でも実際にアサミ先輩が長く付き合ってるのはこの部屋の主。



 アサミ先輩とスガ先輩の間にはそういう感情は一切ないらしい。



 それでもそういう感情がなくてもふたりは充分仲が良くて、だからアサミ先輩にくっ付いてるあたしをスガ先輩は可愛がってくれる。



 高校に入ったばっかの時は、イジメられてないかとか、嫌な奴はいないかとか、やたらとあたしを気遣って構ってくれた。



“元”彼氏と付き合った時も、アサミ先輩同様心配してくれた。



――でも。



「バレンタインなのに彼氏とラブラブしなくていいのかよ?」


 今日は一切構ってくれなくていい。



 スガ先輩の言葉に完全に不貞腐れてプイッとそっぽを向くと、スガ先輩は「おう!?」と驚き、アサミ先輩はケラケラと笑う。



「何だ? 何だ?」と半分取り乱したスガ先輩に、大笑いのアサミ先輩はあたしの代わって午前中あたしの身に起こった事件の経緯いきさつを手短に説明してくれた。



「そりゃお前……」


 あたしの身に起きた出来事を聞いて、呆れたような何をどう言っていいのか分からないって感じの声を出したスガ先輩に、



「同情してくれなくていいもん!」


 ねて言ったら「同情はしてねえ」って笑って即答された。



 途端にムスッとしたあたしを見て、スガ先輩は「おっ」と目を見開き、ちょっとだけ「しまった」って顔をする。



 それを見たから、あたしはここぞとばかりに「八つ当たり」に近い感覚で喚き始めた。



「もうマジムカつく! 大体、あたしと約束してる前日に女を家に呼ぶ!?」



「まあ、それは十人十色と言ってだな……」


 せきを切ったように喚き始めたあたしに、スガ先輩はなだめるように言葉を掛けてくれる。



 その気遣いが心地の好いあたしは、ここでもやっぱりそれに甘えるように喚き続けた。



「罪悪感とかないの!? そういう気持ちって微塵みじんもないもんなの!?」


「まあ、それは男のサガというものでだな……」


「マジムカつく! マジ最低! あたしの半年超無駄じゃん!」


「まあ……その通りだな」


「…………」


「…………」


「…………」


「…………」


「…………スガ先輩嫌い」


「ええ!? 何で俺!?」


 大袈裟に驚いたって表情をしたスガ先輩を冗談半分で睨み付け、



「さっきから彼氏庇かばう事ばっか言うじゃん!」


 一際ひときわ大きな声で喚くと、スガ先輩は両手を顔の前でブンブンと横に振った。



「庇ってない! 一切庇ってないぞ!? 俺はいつだってスズの味方だ!」


「…………」



「お、俺の可愛いスズをそんな目に遭わせるなんて許せねえ奴だ!」


「…………」


「許せねえな! ああ、許せねえ!」


「…………」


「そんな奴、俺がコテンパンに――」


「スガ先輩嫌い」


「おおう!? スズを庇っているのに!」


 途中からはもう完全に冗談交じりになってて、笑いながら言ってるスガ先輩に釣られてあたしも笑ってた。



 だから「スガ先輩嫌い」って言いながら、体育座りしていた膝に顔を埋めたのは、怒ってるとか泣いてるとかじゃなく、込み上げる笑いを抑える為だった。



 そうだと分かってるからスガ先輩もアサミ先輩も、一緒になって笑ってる。



 やっぱりここに来て良かったと思う。



 あんな事の後一人で家に帰ってたら、それこそやり切れない思いに泣いてたかもしれない。



 強がりでも本心でも、誰かに愚痴れるっていうのは大切なんだって、こういう時に実感する。




「まあ、そんな男さっさと忘れるに越した事はないって感じね」


 ひとしきり笑った後、アサミ先輩はそう言って、再び缶コーヒーに手を伸ばす。



「……はい」



 言われてる事は正しい事だと思うから、素直に返事するしかなかった。



 でも、それが正しいって分かってても、当分忘れられそうにない。



 好きとか嫌いとかそういう感情は置いておいたとしても、あの時の衝撃は忘れられそうにないし、このムカつきも当分消えそうにない。



 釈然しゃくぜんとしない感覚に、イライラがつのる。



 何であたしがこんな目にって、正直思う。



 やっぱ殴ってやれば良かったんだろうか。



 そしたら今よりはもうちょっとマシだったんだろうか。



 だけど殴ったからってこういう気持ちは――裏切られたっていう悔しい気持ちは――消えない気がする。



 そんなあたしの気持ちを察したのか何なのか、



「そうだ、スズ。男紹介してやるよ」


 スガ先輩は突如とつじょ場違いにも思える提案をしてきた。



「スガ先輩。あたし当分彼氏作るつもりないんですけど」


 あんな事があった後、すぐにホイホイ男を作るほど図太い神経を持ち合わせてはいないあたしが、そう言ってスガ先輩を横目でチラリと見ると、スガ先輩は慌てたように「違う、違う」と手を振った。



「そういう紹介じゃない。ってか、そういう紹介は頼まれてもしたくねえ」



「はい?」


 理解し難い事を言ったスガ先輩は、あたしの聞き返しをものの見事にスルーして、



「スズ、明日の夜暇か? ちょっと俺に付き合え」


「え?」


 勝手にそれを決定すると、ゆっくりと腰を上げた。



「ちょっ、スガ先輩!?」


「明日な、明日」


 話の途中なのにスガ先輩は爽やかに手を振り部屋を出て行く。



 結局何が何だか分からないまま、あたしは約束を取り付けられ――。




 ――それがあたしがあの「悪魔」に出会う、運命的なきっかけだった。

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