3
――漆黒の夜の闇を纏い、その男は現れた。
姉が妊娠したと知ったのは二週間前。
知ったというよりは知らされたという方が正しい。
ずっと体調が悪そうにしていた姉が妊娠したと告げてきた時、正直そんな事言わないで欲しいと思った。
大学受験に向けこの夏が勝負なのに。
この夏に周りとの差がつくのに。
そんな事を聞かされて、黙ってる訳にはいかないのに。
結果、姉の話を聞いた所為でこうして貴重な 二週間を無駄にした。
けど、いくら時間が無駄になったとしても、探さない訳にはいかない。
いかなかった。
知らぬ顔は出来なかった。
だって姉は子供を産むと――家を出て親に内緒で一人で産むんだと言い切ったから。
相手の人に言ったのか聞いたわたしに、「言えない」と姉は言った。
意味が――分からなかった。
妊娠するような事をする相手に「言えない」道理が分からなかった。
だけど話を聞いてみると、なるほどと思ってしまった。
真面目な大学生だと思っていた姉は、親には友達と勉強をすると言いながら、夜な夜な友達とクラブで遊んでいたらしい。
勉強ばかりで息が詰まったんだと、姉は言い訳を口にした。
厳しい親への反抗心だと、姉は今更ながらの事を口にした。
そしてよく行くクラブで会ったのが、姉の相手――アスマさん――だったらしい。
一度きりの関係じゃないと言ってた。
半年ほど“付き合った”と言ってた。
だけど妊娠が分かった姉は、逃げたんだと言った。
アスマさんの噂を知らない訳じゃなかったと、言ったところでどうにもならないのは分かってるし、堕ろせと言われたくなかったと。どうしても産みたいと思うほどアスマさんが好きなんだと姉は笑った。
でもそんなの絶対に間違ってる。
いくら相手が好きだろうと、そんなの絶対に間違ってる。
好きであるなら尚の事、相手と話し合うべきだと思う。
産むにしてもそうじゃないにしても、妊娠はひとりの問題じゃなくふたりの問題で、どちらかが勝手に決めていい訳がない。
だから探した。
予備校をサボって、今日は学校の授業までサボって、姉に内緒でアスマさんをずっと探した。
状況を話して責任を取れと――せめて姉と話し合って欲しいと頼もうとアスマさんを探し続けた。
姉に内緒で探した所為で、姉がアスマさんとどのクラブで会ったのか聞けず、ただ
なのに。
わたしはそんな状況で、はっきり言って他人の事に構ってはいられないのに。
「時間大丈夫? 夜遅くてもいける? 親に電話した方がいいんじゃない? 怒られない?」
このスズさんの態度が気になる。
正直、わたしの話を聞いて泣きだすんじゃないかと思った。
泣きはしなくてもショックを受けるだろうとは思ってた。
なのにスズさんは、わたしの姉の話を聞いても取り乱すどころか顔色ひとつ変えず、「うん、分かった」と言って、アスマさんに電話をかけた。
通話中も動揺は一切見られず、ただスズさんはわたしの存在をアスマさんに告げずに、「どうしても今日会いたいから時間作って!」と頼んだ。
何度も「お願い!」と言ってた感じからして、アスマさんは断ったんだと思う。
結局最後はしつこく食い下がるスズさんに、アスマさんが根負けしたという感じだった。
通話を切ったあともスズさんの態度は何も変わらず、
「アスマ約束があるらしくて、会うの夜になるけどいい?」
さっきまでと同じ口調、同じ声色でそう聞いた。
よく――分からない。
片思いしている相手の男が他の女を妊娠させて、こうも平静でいられるんだろうか。
確かにスズさんにはどうしようもない事だし、他人事といえば他人事だけど、それでも多少なりショックを受けるものなんじゃないかと思う。
それは想像でしかないのだけど、決して独り
そこまで考えてふと、答えを見つけた。
ショックを受けないのはきっと、アスマさんが責任を取らないと分かっているからなんだと。
何人もの女と関係を持ち、非道だと言われているアスマさんが、遊んでる女のひとりが妊娠したところで責任を取るとは思えない。
話し合いにしろ、懇願にしろ、子供を堕ろすという事になってもスズさんの腹は痛まない。
姉が勝手に産んだとしても、スズさんには関係ない。
それは正真正銘“他人事”で、どちらの結果になろうとスズさんの前からアスマさんがいなくなる訳じゃない。
なるほどそういう事か――と、思うと凄く腹が立った。
親身になられたところでどうって訳でもないのだけど、“他人事”だという態度に腹が立った。
だからアスマさんとの約束の時間まで、どこかで一緒に時間を潰そうかというスズさんの誘いを断り、待ち合わせの時間と場所を決めて一旦別れ、わたしは予備校に行った。
それから数時間の後。
すっかり陽が暮れ、世界がほんの少し夜の静寂に包まれた頃、わたしは“そこ”に立った。
指定された場所に行き、すぐに騙されたと思ったのは、そこが余りにも薄気味悪い所だったから。
車も
外灯も少なく、あっても電球が切れかかっているのか、その殆どがチカチカと点滅してる。
どこからともなく聞こえてくる、牛蛙の声。
小さく咳払いをしただけなのに、それが妙に反響する。
反響を作り出すのは、駐車場のずっとずっと向こうにある、夜の闇にぬうと不気味に
ここが昼間どんな風なのかは知らないけど、今と
待ち合わせがこんな場所だという事がまずおかしいと思った。
そして次の瞬間、騙されたんだと悟った。
わざわざタクシーに乗って来たのにと腹が立った。
きっと騙された方も騙した方と同じくらいに悪いんだろうけど、わたしはスズさんに対しての怒りしか沸き上がらなかった。
それは彼女があんな風に無邪気だったからだと思う。
人を
なら結局は勝手に買い被った自分に腹が立っているんだろうか。
でもどちらにしても騙されたという事には変わりなく、タクシーを帰らせてしまった所為で帰り道が分からず、どうやって帰ればいいのかと不安を覚えた、その時。
「イチコさんごめん! 遅くなった!」
パタパタと足音を響かせ、駐車場の入口からスズさんが現れた。
息を切らし目の前まで走ってきたスズさんは、数時間前に会った時と変わらない笑顔で、
「ごめんね!? 出る前にスガ先輩に邪魔されて!」
顔の前で両手を合わせ、申し訳なさそうに両眉をハの字にする。
はあはあと全身で息をするスズさんを見て、疑った自分を少し恥じた。
スズさんはアスマさんに会う時間まで一緒にいようと言ってくれたのに。
それを断ったのはわたし自身のはずだったのに。
腹を立てるならスズさんにではなく、それを断った自分に対して立てるべきなのに。
なのにわたしは自分にある非を考える事なく、スズさんだけを責めていた。
「……怒ってる?」
何も言わずスズさんを見つめるわたしに、スズさんは更に眉尻を下げ申し訳なさそうな顔をして、
「あ、いえ。わたしも……今来たところです」
わたしが吐いた“嘘”に、「よかった」と笑う。
やっぱり無邪気なその顔から、わたしはスッと目を逸らした。
何となく直視出来なかった。
スズさんを見ていると、“わたし”という人間を嫌悪してしまう。
余りにも対照的な人間を目の前にすると、自分と比較して――自分を嫌悪する。
そんな気持ちになるのはわたしだけなんだろうか。
他の人はそんな気持ちになる事はないんだろうか。
分からない。
分からないけど、
「本当にごめんね!? 全部スガ先輩が悪い! スガ先輩、最近あたしの靴隠すんだよ!」
目の前にいる無邪気で鈍感そうなこの子には、“そういう”黒い感情はないだろうと思った。
「靴……?」
「そう! 酷いでしょ!? アサミ先輩が見つけれくれたからよかったけど!」
「えっと……」
「仕返しに、明日はあたしがスガ先輩の靴隠すんだ!」
「あの……」
「ついでにヘルメットも隠してやる!」
「…………」
「もうしないって約束してくれるまで絶対に出さない!」
言い訳なのか何なのか、早口で言葉を紡ぐスズさんの言ってる意味がさっぱり分からなかった。
話を聞いて状況を把握しようと思ったけど、全く分からなかった。
最初はスズさんとその“スガ先輩”という人が一緒に住んでるのかと思ったけど、更に出てきた“アサミ先輩”という人の所為で分からなくなった。
三人で住んでるとは考え辛い。
ならその“スガ先輩”と“アサミ先輩”が住んでる所に遊びに行ってたという事なんだろうか。
分からない。
まずわたしに与えられた“スガ先輩”と“アサミ先輩”という人の情報が少なすぎる。
どうしてこちら側が何もかもを知っていると思って話すんだろうと不思議に思う。
説明を飛ばして答えだけを言われても、聞いてる側としては困惑するしかない。
だから、
「あ、そうだ! 今度アサミ先輩に会わせてあげるね!」
名案だといわんばかりの顔でそう言われたところで、喜んでいいのか悲しんでいいのか分からず、「はあ……」と答える事しか出来なかった。
それどころではないのに。
わたしはそんな事を考えている場合じゃないのに。
スズさんといると何故か自分のペースが狂う。
これが異界の住人の魔力なのかもしれない。
戸惑い、困惑してる間に相手のペースに嵌まってしまう。
アスマさんもスズさんのように、魔力を秘めた人なんだろうか。
だとすればわたしはきちんと話をする事が出来るんだろうか。
この問題を解決する事が――。
「あ、来た」
スズさんの小さな呟きにハッと我に返ったわたしは、駐車場の奥へと向けられたスズさんの視線を追いそちらへ目を向けた。
その先。
遠くに聳え立つ団地のような建物の方。
夜の闇が――動いた。
ぐにゃりと闇の一部が歪んだように見えた。
でもそれは闇ではなく――。
「アスマ! こっち!」
人間がこちらに向かって歩いてきているだけ。
そうは分かっても何故か背筋がゾクリとした。
人差し指ほどの大きさだったその闇が、ゆっくりと近付き大きさを増していく。
近付くにつれその風貌が、ぼんやりとではあるものの見え始める。
黒いTシャツの下にジーパンを
目を――逸らせなくなった。
夜に溶け込む漆黒の髪。
透き通るほどの白い肌。
数メートルの距離を取って足を止め、長めの前髪から覗く黒い瞳がわたしを凝視する。
何もかもを吸い込んでしまいそうな――瞳。
「誰だ、こいつ?」
――漆黒の夜の闇を纏い、その男は現れた。
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