君の名をコトの終わりに叫ぶ(Client and the others)


 依頼人が事務所を訪れたのは、じつに二週間ぶりだった。多くの喫茶店が実は豆の小売で生計を立てているように、個人の小さな探偵事務所というものは、大手の下請けであったり、調査の手伝いであったりと、そういう細々とした仕事がメインで、依頼人から直接仕事を受けることは少ないのだ。

 所長の趣味がコーヒーなので、客に出すにはもったいないぐらいの良い豆を使っている。自慢できるのはそれぐらいの零細探偵事務所で、依頼人は居心地悪そうにしていた。クッションのソファが硬いのかもしれない。

「お砂糖とミルクは要りますか?」

 結構です、とでもいうように妙齢の若い女性は軽く手を振った。私は、そのまま向かいの席に腰を下ろし、コーヒーに口をつけた。

「さて、それではお話をうかがいましょう。弁護士ではないので、お話をうかがうだけならお代はいただきません。それからコーヒー代もね」

「あの、あなたがこちらの——?」

「所長代理の椎原です。ハンドドリップの上手さではそこらへんの喫茶店には負けません」

「所長様はいらっしゃらないのですか?」

「実質、ここを切り盛りしてるのは私です。ご不満なら、どうぞご退席を。あ、コーヒーはどうぞ飲んでください。もったいないので」

 小さく溜息を吐いてから、彼女は話し始めた。

 彼女の名前は、稲葉なほ。専業主婦だが、最近オンラインサロンでお菓子の作り方などを伝授していて、ここの依頼金ぐらいなら自前で払えるとのこと。探してほしいのは、夫の初恋の人だという。

「あなたの、ではなくてご主人の?」

「ええ。あの人の出身は新潟のほうで、出生地も通った学校などもわかってはいるのですが。必要とあれば、彼の卒業アルバムなどもありますし……」

「私的なこと、しかも年月の経ったものというのは、なかなか見つけ難いものです。ご主人の親友や旧友などをあたって聞き込み調査をしたとしても、該当する人物が出てこないことも、とんだ見当違いのこともある。そもそも初恋の人なんていない、ということも」

「そんなはずありません!」

 膝の上にぴしゃりと自分の拳を打ちつけて、稲葉は私をキッと睨んだ。

「ならば、その根拠も話してもらわないと。さあ、話す前に、どうぞ喉を潤して」

 そこで初めて稲葉はコーヒーに口をつけた。表情が変わった。

「美味しい……」

「味のわかる人でよかった! いまなら気分が良いので依頼金も値切れますよ?」

「値切る気はないですが、本当に知りたいんです、あの人の初恋の相手が。絶対いるはずなんです、だって——」

 テーブルにカップを置くとき、カチャカチャ鳴った。感情が行動に現れている。稲葉は深く息を吸い、呼吸を整えた。

 裾の乱れに気づいたのか直し、やや上目遣いになって訊いてくる。

「その……男の人って、最後の時、誰の名前を呼ぶものなんですか?」

「最後? え? あ、……え、射精のときってことですか、もしかして? ダイイングメッセージ的なことではないですよね?」

 生真面目な顔で言われては、冗談で返すわけにもいかないだろう。それにいまどきはなんでもハラスメントハラスメントとうるさい。出来るだけ真摯に答えるしかない。

「それは人によるといいますか……そもそも相手の名前を叫ぶ男というのは少ないのではないでしょうか。……いや、意外といるのか……ドラマや漫画では間違えた名前をいったせいでというのはあるし、愛人は全員奥さんと同じ名前を選ぶような話も聞いたことあるような……え。稲葉……なほさんでしたよね? やられたんですか?」

「やられたというか……毎回、です。毎回、あの人はわたしとは違う名前を」

「その名前はいつも一緒なんですか? それとも都度違うとか……?」

「いつも一緒なんです」

 下唇を噛むようにして、拳はスカートの裾を握っている。スリットの入ったスカートは引きつれ、人妻の青白い肌がのぞいている。

 客に妙な色目を向けることなどあってはならぬことで、なのに当たり前のように身につけていたフィルタが、外れる音を聞いたような気がした。若く美しく、魅力的な依頼人。

 しかし一度モノにしてしまえば、そこで興味が薄れるものという輩はことのほか多い。生活が入り込んでしまえば、魅力も色褪せるということだってあるだろう。

 私は気付かれないように慎重に生唾を飲み込みながら、疑問を口にした。

「ところで、その名を聞いても?」

「……はい」

 その名を口にするのも屈辱だというふうに幽かに震えながら、

「ルイズと」


「はい、解散。どうぞ、コーヒーをゆっくり飲んで、お帰りください」

「ええっ、お仕事、受けてくださらないんですか?」

「ご主人のそれは初恋の人ではない……いや初恋なのかもしれませんが、実在はしないし、何の心配にも及びません。おそらく、ご主人の射精のプロセスに組み込まれている、単なる呪文のようなものです。気にしないでコトに及べばよろしい」

 私が何か適当なことをいって誤魔化そうとしているのではなく、本気でそう言っていることが伝わったのだろう。

 小さく「射精のプロセス」と口ずさんだあと、稲葉は少し冷めたコーヒーを口に含み、やっぱり美味しいです、と微笑んだ。

 くそくだらない話を聞かされた代金としては、まずまず美しく、朗らかな笑顔だった。

「ところで」

 紫外線対策のアームカバーをつけ、帽子を手に取った依頼人へと、声をかける。

「なんでしょうか? 弁護士ではないと言いましたが、料金ならば払いますよ? お時間もとらせてしまいましたし。それに美味しいコーヒーまで」

「いや、そういうことではなく。えーと興味本位なんで、答えたくなかったら無視していただいていいんですが。その、もしかしてご主人、あなたがお口でするときには手拍子をしたりなどは——?」

 彼女はふっと微笑んで背を向け、勿論しますわ三三七拍子で、と答えてからドアを後ろ手に閉めた。

 世の中は広い。



参考資料:「ルイズ コピペ」「フェラ 手拍子」ggrks

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