物差し(お題:定規)


 昭和の頃の話である。

 教師用のやたらでかい三角定規(木製)があって、それが休み時間にやたらと人気になった時代があった。

 武田鉄矢主演の刑事物語という映画があり、主人公が使うハンガーヌンチャク(まだまだ衣紋掛け、という言葉も残っていたが)を真似するのに、その大型の木製三角定規が適していたのだ。

 大体、クラスの上位カーストにいる男子がその三角定規を独占し、私のような存在はうらやましそうに、はしゃぐ彼らを眺めていたものである。

 私だって、やりたかった。

 家で母に怒られながら、ハンガーを振り回し、時に弟を泣かせ、時にキラキラとした目を向けられる大技を披露したりして、クラスでも同じような目を向けられたいと考えたものだった。


「まだやってますか?」

 少々くたびれた、けれど丁寧な口調で店にやってきたのは、記憶にある顔だった。こちらが何をいう前に店内に入り、あとから若い女性が続く。

 外は大雨で、なるほど客も来ないわけだ、とぼんやりと考えた。

 カウンターについた彼は「ビールはありますか?」と聞いてきた。私は暖かいおしぼりを出しながら「瓶なら」と答えた。

 すぐに思い出せたように、彼の顔はきちんと子供の頃の面影を残していた。それなりに年輪が刻まれ、老けてもなく、幼くもない、ちょうどいい塩梅の初老の男。

「あなたは?」

 とおしぼりを手渡しながら、彼の娘であってもおかしくない年頃の女性へ訊ねる。「ノンアルコールもありますよ」

 彼女は上気した顔で、

「強いのください」と力強くいった。


 客の話を聞くべきか聞かざるべきかというのには、人それぞれ思うところがあるだろう。さしでがましくない程度に耳をそば立てて、アドバイスを求められれば的確なアドバイスを与えられるのがよいというのも、プライベートは一切耳に入れず、しかし注文の声には即座にて反応してこそ、というのも、どちらも一理あると思う。

 ただ私は、今回の客の話の一切を耳に入れたいとは思わなかった。聞くまでもなく、くだらない別れる別れないだの話なのは見え見えだったし、かつてのヒーローだった男の、惨めたらしい様子なんて、目にも入れたくなかったのだ。


 ことのほか早く決着はついた。勝ち誇った顔の若い女に、とぼとぼとついていく初老の男。女はジンソーダとのラムを空け、男は瓶ビールの半分も飲まずに会計を済ませた。

 厨房からバイトのノブオが出てきて、なんなんですかね、とぼそっといった。

「ああいう冴えない男が若い女連れてるの見るとちょっとムカつきます」

「冴えない、ねえ……」

「いやマジでマスターのほうが何倍もいい男ですって」

 何故かガッツポーズを見せて、また厨房へ戻ったノブオの背中を見ながら、笑いが込み上げてきた。

 あの子は下手なお世辞や嘘をつく子ではない。趣味もあるだろうが、きっと見栄えだけなら私の方がいいのかもしれない。

 けれど。

 まだ私がこうなる前——スカートを穿いて、少年たちの輪に入ることをこっそり夢見てた頃の彼は輝いていたし、いまもまだ充分に魅力を残してるように見えた。

 あれは、いま思うと初恋だったのかもしれない。

 物差しは人それぞれ。

 その物差しですら、時と場合によるのだ。来るか来ないかわからない新たな客の来る前に、私は温くなった不味いビールを、彼の代わりに飲み干した。

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