マリー・シェリーの赤ちゃん(a baby)


 シェリー夫妻が新居に越してきたとき、出迎えたのは大きな地震だった。なにぶん地震とは縁のないお国柄だったものだから、夫妻は台所のテーブルの下でぶるぶると震え、震えながらとんでもない歓待もあったものだ、という夫の冗談にマリーも引きつった笑みを浮かべた。

「でも、まあ真新しい立派なアパートでよかった」

 テーブルの下からほうほうの体で這い出した夫は言った。テーブルの上には、ささやかな入居祝いの名残りがあった。倒れたグラスから赤いワインが水溜まりを作っている。

「前のオンボロアパートだったら崩れてたかもしれない、アッシャー家のように。マリー?」

 夫がテーブルの下をのぞくとマリーはスマートフォンの画面に釘付けだった。青白く照らされた顔は真剣で、愛嬌のある顔立ちの妻らしからぬ表情にゾッとした。

 その後は余震もなく平穏だったが、新居での初夜はそれとなくちょっかいを出す夫の手を払う妻という構図で、あきらめた夫が寝息を立ててもまだマリーは天井を見つめていた。地震がよほど怖かったのかもしれない。


 テーブルの上でねっとりと血のようになったワインの染みを抜き取るのに大層時間がかかっていた。どうして昨夜のうちにやっておかなかったのだろうと憤慨するマリーには、地震以降の険しさはない。普段の愛嬌が戻っていた。その様子を見れば夫も幾分か安心しただろうが、彼は早朝から散歩に出かけてまだ戻ってきていない。

 シミ抜きはあきらめて、マリーは朝食を作り始めた。トーストと目玉焼き、それからサラダのいつものやつだ。本当ならサラダにはサラミを入れたかったのだが、この辺のお店はどこも高価で、奮発するほど素敵な品物にも巡り会えなかった。それに地震だ。

 サラダを盛り付けていたマリーの手が止まる。眉間にシワが寄る。フライパンの上の目玉焼きが固くなっていく。

 地震は、ピンポイントでこの街だけを襲っていた。局地的な地震、というやつ。調べて見ると数年に一回ぐらいはああいう揺れがあるらしく、ちょっと多すぎるのではないか、と不安になった。マリーの生まれ育った田舎では、地震なんてついぞなかったから。

 そういえば、と不安が不安を連れてくる。昨日は私、冷たくなかったかしら、と。普段であればマリーのほうがせがむぐらい(なにしろ早く赤ちゃんが欲しかった)で、なのにパーシーを冷たくあしらってしまった。

 ハッと気づいてフライパンを見ると、玉子は焦げて縮んで端がめくれあがっていた。慌ててパンを取り上げて、なんてことはマリーはしない。マリーはこういう時には意外と冷静だ。今更あわててもどうしようもないことはバッサリ切る。幸い、目玉焼きは食べられないほどではないし、食べられないなら捨てるまでだ。

 夫はまだ帰ってこない。


 寝不足だったからだろうか、マリーは夫の帰りを待つうちにうつらうつらと船を漕いでいた。

 テーブルの上の目玉焼きは、焦げながら、冷めている。心なしかサラダもしおたれて見える。

 なんてことはない日常の食卓にヒジを着きながら、うたた寝をするマリーは悪夢を見た。

 生まれてくる赤ん坊が、すでに死んでいて、死んでいるのに床を這いずり、無邪気な笑顔を浮かべている。笑顔なのに顔は青白く、嬌声は一切ない。

 夫はその赤ん坊の周りをうろうろし、手を叩きながら後ろ向きに歩く。音で誘導してるのだろうか。ずずっ、すずっという這いずる音と、手を叩く音、時折夫が我が子の名(なんと呼んでいたかはわからない。何か聞きなれない響き、聞きなれない音の連なりだった)を呼ぶ声、それを眺めている自身の顔が笑顔であることがマリーにはわかった。

 目を覚まして慌ててマリーは自分の顔を触った。確かめた。最前までどんな顔をしてきたかは、もうわからなかった。

 ドアが開く音がし、夫が鼻歌混じりに戻ってきて、マリーの顔を見るなり言った。

「どうしたんだい、うっとりして。いい夢でも観たのかい?」


 転居するというので数日の休みをもらっていた夫も、明日からはまた出社する。職場がだいぶ近くなったとかで夫はうれしそうだ。さらには旧くからの友人も近くに住んでいるとか。

 越してきてから三日間、初日の地震以外は特に何も起きなかった。隣人も人の好さそうな老夫婦で、二日目の晩にはお手製だというミートローフをいただいた。美味しかった。

 ただ、なんとなくマリーには夜の営みに対する積極的な姿勢というものが欠けていた。本来、おおらかで快楽に対しても貪欲で、何より早くに子どもが欲しかったものだから、連日夫を襲うぐらいだったのだが。

 昨夜などは、そのとまどいが恥じらいか何かに見えたらしく、夫の方が積極的になった。激しく野獣のように、ということではなく、ねっとりとしっとりといちいち反応を見るかのように動き、止まり、唇をついばみ、目を覗き込み、舌を這わせ、マリーの高まりに合わせるようにして奥深く精を放った。

 息も絶え絶えになりながら、夫の重みを全身で感じ、天井を見つめて思った。

 身籠ったかもしれない、と。

 幸福の予感ではなかった。

 ここに来る前までなら、それは間違いなく幸福の予感だったはずだ。だが、何かがおかしい。どこかが狂っている。

 地震のせいだろうか?

 白昼夢のせいだろうか?

 それとも、望んだ時には得られず、望まない時に得られることについてか?

 マリーは楽しそうに友人について話す夫へと笑みを向け、うなずきながら違うことを考えている。

 できたかもしれない、などというのだって単なる錯覚かもしれないではないか。

 マリーは夫の手へ自分の手を添えた。夫のパーシーは、妻の常ならぬ態度に一瞬ギョッとしたようだったが、昨晩のことを思い出したのか、その手を包むように持った。

「子ども、できてるといいね」

 微妙な表情で微笑む妻の、その複雑な心中を知らずにパーシーは言葉を続けた。生まれたら、もう名前は決めてあるんだ。そうして彼は、彼の信奉する神の、その使徒の名前を告げた。


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