色は匂へど、(お題:散った)


 近所で竜舌蘭の花が咲くというのでちょっとした話題らしい。待ち時間の間にスマホで調べてみると、どうやら今年は竜舌蘭の花の当たり年に思えた。

 別名センチュリー・プラントと呼ばれるぐらい滅多に花を咲かせない竜舌蘭が、よもやこんな微妙な場所で、と思っていたのだが、江ノ島のほうでも開花するとかいうニュースがあった。そちらに行ったほうが良かったんじゃないか、なんか灯籠祭りとかいうのもあるらしいし、と考えたタイミングで待ち人が現れた。

「お待たせしました。お待たせしすぎたかもしれません!」

 言いながらトワは席に着き、メニューを見始めた。

 夏に向けてかショートカットになっていたトワは、それでもクセのように髪をかきあげながらふむふむとメニューを眺める。ことのほかまつ毛が長いことに気づいて、俺は目を逸らした。

 言動がオヤジでなければ、すらりとした長身の美人なのに、……いや、俺の前でなければ、きっとオヤジスイッチはオフにしているのだろう。それに、男とふたりでサイゼ、なんて選択肢もないのかもしれない。

「あ、昼からビール! ずるいな、あたしも頼んじゃおうかな」

「好きにしろよ。……マグナム頼むんじゃなきゃなんでもいい」

「それは頼め、ということ?」

「芸人じゃあるまいし」

 俺は手をつけてなかったピリ辛チキンに手を伸ばす。ちょっと冷めてた。

「頼んだのそれだけ?」

「頼んだのはこれだけ。頼むだけ頼んで残す奴がいるからさ」

「じゃあご期待に応えて。えいっ」

 呼び出しボタンを押して、やってきた店員にメニュー番号を書いたメモを手渡し、にこっと頬笑む。

「安東のことだから、どうせ予習したんでしょ。どーよ、アガベ」

「アガベ? 竜舌蘭じゃなくて」

「学名がアガベなのよ。テキーラの原料」

「予習してきたな?」

「こう見えて優等生なんでね。あればたのんでもよかったんだけど、テキーラ」

「グラッパでも飲んでろグラッパでも」

「お、なるほど!」

「やめとけ」

 ころころと喉奥で笑うトワの、糸のような眼は昔と何も変わらない。俺の唯一の、女友達。そろそろ「三〇になっても独身だったら結婚でもしようか」と約束でもしてしまいそうな関係が十年は続いている。男の話はよく聞かされる(主に愚痴、たまにのろけ)が、コロコロと相手が変わってるのでなければ多重人格者とでも付き合っているのだろう。相手の詳細は聞いたことないし、話されたこともない。

 平日の昼日中から会える友達なんて、きっと俺しかいないのだろう。でなければ彼氏か、女友達でも誘っているはずだ。竜舌蘭の花を見よう、だなんて。

 赤のデカンタとグラス、チョリソーにカプレーゼと小エビのサラダが届く。多分、これで全部じゃない。きっとアロスティーニとかポップコーンシュリンプとかが、あとからまたやってくる。

「食べてもいいよ」

「残すようならいただくよ」

「変わんないねー」

 トワがもぐもぐごくんと飲み込んでから、こちらを睨む。

「新鮮なうちに手をつければいいのに」

 言いながら、伸ばしたフォークで俺の前のピリ辛チキンをかっさらってく。左手で抜き取ると、手からがぶりと一口。脂で濡れた唇で、冷めると味が落ちる、とぼそっと呟き、舌で脂をぬぐった。


 竜舌蘭は何十年かに一度、花を咲かせる前に急激に成長し、子株を残して枯れてしまうのだという。

 生命の神秘。

 生物は、子を残すために生き、遺伝子を残した後はこの世を去っていく。生命の営みとはそういうものだと数学教師がいっていたのを思い出す。

『つまり俺は生物としての必要条件を満たしていない』

 教室にはささやかな笑いが広がり、教師もまた笑っていたが、俺は笑えなかった。

 きっと自分も生物としての必要条件を満たすことはないだろう、そんな予感があったからかもしれない。

「その竜舌蘭、アガベだっけ? 死にたくないからなかなか花を咲かせないんだ、ってのはどうよ?」

「逆説的に? あんまり安東らしくない論旨の展開の仕方じゃない?」

 デカンタは空になり、三分の一以上中味を残した皿がテーブルを埋めている。えい、とトワがまた呼び出しボタンを押す。マグナムボトルを頼んだ方が安くつくパターンだな、と思いながら俺は止めようともしなかった。なみなみと残っていたグラスを、俺も一息で空ける。

「安東はさー」

 窓に目をやりながら、トワがぼんやりとした声を出す。

「……童貞?」

「ど、どーていちゃうわ!」

 こっちを見て、くすくす笑う。

「素人童貞の——」

「昼間っからそういうことを口走るな! あと素人ドーテイでもないわっ!」

「見栄を張る安東くんは、いつもチラチラと色々なところを盗み見るのがお好きみたいですが、関係を壊すのがいやで誘ってこないの?」

 絶句した。突然、何を言い出すのだ、こいつは。

「アガベって、アガペーに似てない?」

「アガペー……」

「神の、人に与える無性の愛。性愛エロスとは無関係な、性器のない人たちの愛」

 いつもの煙に巻く調子とは、ちょっと違う、見たことのない不思議な雰囲気でトワがつらつらと答えた。

 テーブルの上に載るトワの手を、なぜか俺はつかんでしまった。いや、つかまされてしまった。卓上の空いた空間に、そこしかないと店員がグラスを置くように、誘われてしまった。

 おそらく、いままでなら、振り払われるのが怖くて、つかみたい衝動があっても必死で見ぬふりをしてきたのに。

 本当にそうか?

 むしろ受け入れられてしまうことのほうが怖かったのではないか?

 包まれた手の中でつぼみが開くように広げられた指先が俺の指を絡めとる。

 ふふん、と勝ち誇ったようなトワの表情に、思わず下を向いてしまった。

「浅き夢見し 酔いもせず」

「…………」

「覚えてる? いろは歌。空海がどうのこうのと偉そうに教えてくれたのは安東だよ」

「……そう、だっけ?」

「『いままで色々あったが全て乗り越えてきた、もう醒めた目で現実を見れる、とかいう解釈を俺は認めない』って。『さとりを開いたと思っても、まだ夢現ゆめうつつの中にいるのが人間だろ。だから——』」

「夢を見て、見たまんま生きてやる、か」

 随分と青い発言だな、と思うし、そんな科白せりふを覚えられてるなんてたまったものじゃない。もっともらしい言い回しも、正確かどうかすら指摘できない。

「変わらないものはないし、変わらないためには変わっていかなきゃいけない」

 真顔で言ってから、トワが舌を出す。

「——と、ラーメン屋の店主がテレビで言ってた」

「あいかわらずだな」

 俺は顔を上げて、まっすぐトワを見ていた。いーかげんでテキトーで、俺には不釣り合いな別嬪べっぴんの、大事な女友達。視線に気付いたのか、にぎにぎと手をにぎってくる。不敵に笑いながら。

 一際、ぐ、と力がこもって、

「じゃあ、いくよ!」

「え、どこに——」

「どこにって今日の目的を忘れたの⁉︎ アガベの性器を見にいくんでしょ!」

「おまえな……」

 手が離れ、立ち上がるトワに釣られるようにして俺も腰を上げた。まったくもっていつも通りの女友達に、まるで夢でも見させられたような一時だった。

 が、それはそれとして。

「頼んだものはちゃんと食う! 食えないなら寄越せ!」

「はぁい……」

 デカンタはキャンセルした。

 会計を済ませるためレジ前に立つ俺に、こそっとトワが耳打ちした。

「竜舌蘭の花は滅多に見れないからね。散る前にちゃんと見ないとね。外で待ってるよ!」

 振り向くと、咲き溢れるような笑顔があって、にぎにぎする手とともに、店外へと消えた。

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