太夫(お題:蚊取り線香)


 冬には隙間風で外気と変わらぬオンボロの我が家も、夏であればそう悪くはない。集合住宅より涼しいぐらいのものだ。ただし、半ば裏の林と融合しかかってるような有様のため、虫がひどい。蚊や百足は頭痛の種だ。

 とはいえ目下の問題は、比喩ではないほうの頭痛だった。家にいると頭痛に苛まれる。眩暈がする。時には吐き気も。家を出るとぴたりと止むので、おかしいのは自分ではなく家なんじゃないか、と思い始めた。

 友人の知人だという太夫たゆうが、我が家へやってきた。太夫というのは民間の陰陽師で、そんな面白い家があるなら是非見てみたいと向こうのほうから押しかけてきた。なんでも修行中なのだとか。修行中の身だからかなんなのか、ランニングにハーフパンツ、背にはリュックサックという随分ラフな格好だった。

「それでは拝見させていただきたく」

 どうぞどうぞと家へ招じ入れると、案内を待たずにすたすたと先へ進む。目に見えない蜻蛉か何かを追うような風情だった。

 一階で一番広い部屋へと襖戸を開けて入り、その奥まで進み、立ち止まる。何か考え込むようにあごに手をあてているので、何かありますか、と聞こうとした時、太夫は言った。

「これは呪を打たれてますな」

「しゅ?」

「のろいです。心当たりは?」

「いやいや、ないですないです。え、呪い?」

 太夫はリュックを下ろし、中から紙の束を出し、荒縄を出し、巫女さんが持っていそうな紙切れの付いた木の棒を出した。

 荒縄の端を開け放った窓枠へと結びつけ、もう一方を反対の端側、襖を開けた鴨居へ縛り、張られた縄へ紙切れを付けていく。ちょっとした注連縄みたいな有様になった。

 木の棒を片手に持ち、太夫は「これから呪詛返すそがえしを行いますので。かやりの風に吹かれませぬよう気をつけて」

 何言ってるかわからないのに、気をつけてと言われても。と、声に出して言うべきか言わざるべきか考えているうちに、太夫のスソ返しとやらは始まってしまった。むにゃむにゃと意味のわからない、けれど一定の法則性は感じとれる文言を呟きながら、木の棒を揺すり始めた。

 チクッとした痛みを感じ、反射的に腕を叩いた。

 蚊だ。

 そりゃそうだろう。窓を開けっ放し、襖も開きっぱなしだ。矢も盾もたまらず、台所へ行き、蚊取り線香を持ってくる。太夫の邪魔にならないよう、部屋の隅、二箇所に線香をしかけた。

 と、何が働きかけたか、蚊取り線香の勢いが凄い。煙も匂いも普段以上で、効果はありそうだが、煙い、臭い。これも太夫の成せる技なんだろうか、と涙目になりながら太夫を見ると、太夫も目をしぱしぱさせ苦しそうだった。

「参った、これはかやりの風……し損じた」

「いやいや、これは蚊やりの煙! なんかわからないけど無念! みたいな顔しないで! あきらめないで! がんばって! ファイト!」

 自分でも何言ってるのかわからなくなってきたが、なんとなく儀式(?)を中断させてはいけないのではないかと、そんな気がしたのだ。必死さに応えてくれたのか、再び木の棒が振られ始め、文言が続き、派手に縄から下がる紙片が揺れ始め、いぶされたせいなのかでかい百足が出てきて、部屋の真ん中で苦しげにのたうつと、やがて静かになった。

「呪詛返し、成功にてつかまつる」

 こちらへ向き直り、深々と頭を下げられて、釣られるようにして頭を下げ返した。

 百足はぴくりともしない。

 太夫は百足を拾い上げると、ぱくりと口に放り込み、ほとんど噛まずに飲み込んだ。それから、ニッと笑った。

 ほんの気持ちの謝礼も受け取らず、太夫は帰ってしまった。

 頭痛はしなかった。視界が霞んで見えるのは、これは単なる煙のせいだろう。対になるように部屋の隅に置かれた蚊取り線香は、元の形のまますっかり灰になっていて、まるで蛇がとぐろを巻いているように見えた。


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