「第3章 自分の体は世界に一つだけしかないんだから」(2-5)

(2-5)


 市役所を出て最寄り駅へと向かう。歩きながら、徳永に電話を掛けた。


「徳永さん。お世話になっております、イースト・システムズの佐々木です」


「あ〜、佐々木さん。電話待ってたよ〜」


「昨日の至急案件なんですが」


「うんうん。決裁の調子はどう? 十七時までには何とかなりそう?」


「申し訳ありません。関連会社に確認したところ、決裁が今日中には通らないとの事で……、どうやら明日の午前中に通るらしいです」


 喉奥を搾るように声を出して事実を伝える。緊張でカラカラになった喉は空気を吸って、トゲとなり康介の喉を痛めつけた。


「あれ? 昨日は電話で今日中に決裁が通るって言ってたよね?」


「はい、そうなんです。昨日話した関連会社の担当が休みで代理の方に調べてもらったんです。そしたら明日に決裁が通る予定で進行していると、」


 下手に取り繕っても意味がない。康介は起こっている事を正直に伝えた。すると、少しの沈黙があってから、「なるほどね〜」と徳永の反応があった。


「それは、あれだ。その担当さんにやられたって感じだね」


 徳永の反応に今回の件は、康介のせいではない。そういう意味が含まれている気がして、張り詰めていた緊張が緩んでしまう。“そうなんです、僕も困りました。”そう言おうと口を開けた時、「それでさ、」と徳永の話が続いた。


「どうしようか? 決裁が通る予定だったから、もう発注かけちゃったんだよね。うーん、困ったなぁ」


 徳永の言葉が耳に入った途端、緊張が抜けたのは間違いだった事に気付く。

 彼にしてみれば別に原因が誰にあるかなんてどうでもいいのだ。問題なのは、発注が出来なくてお客様に支障をきたしてしまう事なのだ。


「ねぇ、どうしよう? 佐々木さん」


「えっと……、」


 意見を求められても康介は上手く答えられない。言葉に詰まり今にも思考が停止しかけている。それでも徳永は容赦しない。


「明日の朝イチで手配しちゃったんだよ? もうそれに合わせて他のスケジュール全部組んじゃってるから、今から止めるのはなぁ〜」


「それは、」


 徳永の話す言葉の一つ一つが康介を追い詰めていく。自分もこの現状はもうどうしようも出来ない。かと言って、そんな事を口にする訳にはいかない。


 何を言ったらいいか。そう考えていると、いつの間にか到着していた地下鉄のホームから、次の電車が到着するアナウンスが流れた。


「すいません。実は今、地下鉄のホームにいるんです。代行で市役所の会議に参加していまして」


「あれ? そうなんだ」


 電話の向こうから聞こえる環境音で絶対に分かっているはずなのに徳永は、わざとらしく驚いていた。


「ええ。なので一度会社に帰ってから、あらためて連絡させてもらってもいいですか?」


「うん、了解でーす」


「ありがとうございます。帰り次第、状況確認してすぐにお電話させていただきます」


「はーい、待ってまーす」


 徳永との電話が切れた。携帯電話を耳から話すと外気に触れて耳が冷える。それだけ強く押し当てていたのだ。アナウンス通り、地下鉄がやって来た。


 この時、一瞬だけだが康介は、転落防止ゲートが邪魔だなと思った。


 目の前で開いたドアに力なく歩いて乗り込む。車内は行く時は空いていたけど、帰りはそれなりに混んでいた。乗客の殆どは学生。そうか、帰りのラッシュにぶつかったのか。ぼんやりとした頭でそう考える。


 つり革に捕まる力は皆無で、ドア付近の隙間にもたれ掛かって体を支えた。短いアナウンス後にドアが閉まり、地下鉄が発車する。窓の外に映る景色は、灰色のコンクリートで何の味気もない。それが逆に今の康介には心地良かった。余計な事を考えず頭を空っぽにする事が出来るからだ。


 トートバッグに入っている文庫本の事など、頭になく本当に無の時間を過ごす。立っているだけでやっとの状態で康介を乗せた地下鉄は、会社最寄り駅に到着した。


 下を向いていたので到着した事に気付かず、顔を上げて初めて降りる駅だと気付いた。「あっ、」と小さな声を出して、開いたドアから滑り落ちるようにホームへと降りた。


 ホームに降りてエスカレーターに乗って改札へと上がる。朝、通勤する時は遅いと感じるのにこういう時だけ速く感じる。ため息と共に地上に出ると、とても綺麗な真っ赤な夕焼けが空いっぱいに広がっていた。それを見上げて、思わず涙が出そうになった。


 会社に到着してフロアに入る。自分の席へ向かうよりも先に野山係長がいるかを確認した。係長は席に座っていなかった。っという事は、まだ会議中だという事だ。

 すぐに説明に行きたかったけど、しょうがない。


 康介は重い足取りで自分の席に戻ると安藤が「お疲れ様です。代行会議、どうでした?」と軽い感じで聞いてきた。


「そっちは大した事なかったよ。知り合いも何人かいたし、スムーズに進んだ」


「へぇ、良かったですね」


「ああ。あとは議事録書くだけだから、すぐに終わらせるよ」


 康介はスリープ状態にしていたPCを起動してログインする。Outlookにはメールが何通か届いていた。軽く目を通してフォルダに振り分けておく。


 そして、吉川・池田の下へ向かった。まずは吉川から。


「吉川さん、お疲れ様です」


 康介の挨拶に吉川は手を止めて、こちらを向いた。


「お疲れ様です」


「僕がいない間、どうでした? 何か変わった事はありましたか?」


「特にありません。朝に貰った仕事を淡々とこなしていました」


「そうですか。あっ、野山係長はどうでした?」


 さも今思い付いたような感じで尋ねると、吉川は「あー」と何かを言おうとして、言葉を伸ばしたがやがて、「何もなかったですね。こっちにも来なかったです」と答えた。


「了解です。今は、会議中ですか?」


「そうなんじゃないですか? 佐々木さんが帰って来る少し前に荷物を持って会議室に行きましたよ」


 吉川の言い方に徳永から野山係長に電話がきていない事を知り、安堵する。


「分かりました。引き続き、お仕事お願いします」


「はい」


 康介は吉川の下を離れて、今度は池田の席へ向かった。彼女は康介が来ると、作業の手を止めて、「お疲れ様です」と自分から挨拶をしてくれた。


「お疲れ様です。進捗はどうですか?」


「午後に頂いた仕事はあと少しで終わりそうです」


「えっ? 本当ですか? 良かった、何か分からない箇所はありました?」


「……何点かあって、言われた通り付箋を付けました。後で確認をお願いします」


 やはり池田は二人に尋ねる事が出来なかったようだ。付箋という形で残してくれただけマシだと考える事にした。


「了解です。では、引き続きお願いします」


「はい」


 二人の現状確認を終えた康介は自分の席に戻った。さて、自分の仕事はここからだ。そう考えていると、フロアのドアが開き、野山係長が入って来た。彼は自分の席に戻る動線上に康介を捉えると、「お〜、佐々木君」と席までやって来た。


「代行会議、お疲れ様。ありがとう」


「いえ、会議は順調に進みました」


「そう、良かった」


 野山係長の機嫌が良かった。おそらく先程までの係長の会議がスムーズに進んだと分かった。それだけにこの後の展開を考えると頭が重い。


「じゃあ悪いけど、明日の午前中までに議事録もお願い」


「はい。作ります」


 議事録作成は大した労力ではない。康介はすぐに了承する。


「そうだ。徳永さんの問い合わせどうなった?」


「その事で、ご相談があります」


「すぐ済みそう?」


 野山係長の質問に康介は首を左右に振った。


「時間はかかると思います。出来れば打ち合わせスペースで話したいです」


 打ち合わせスペースとは、フロアの隅にパーテーションで区切られたスペースの事だ。二つの長テーブルと四脚のイスがあり、チームミーティングや、簡単な来客対応をする場として利用されている。


 そこで話すという事は、誰にも聞かれたくないという事、事態がそれだけ深刻であるという事を意味している。


「分かった。話を聞こうか」

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