「第3章 自分の体は世界に一つだけしかないんだから」(3-2)

(3-2) 


「――はい。それでは失礼します」


 電話を切った彼女は「ふぅ」と小さくため息を吐く。

 それを聞いて、彼女も緊張していたのが伝わってくる。康介がそう思っていると、彼女はすぐに「あっ、」と声を出して、再び電話を掛ける。何か言い忘れでもあったのだろうか。


「もしもし? 咲貴ちゃん? おはよう、今大丈夫? ――うん、良かった。あのね、さっき後藤先生には電話したんだけど、今日ちょっと遅れるんだ。だから、先に学校行ってて? ――ううん。体調が悪いとかじゃないよ。ちょっと駅で人を介抱してて、それで……、そうそう。大丈夫、二時間目には間に合うから。はーい、じゃあね」


 どうやら一緒に行く友人との電話だったらしい。学校に掛けた時よりも声色が高く安心した様子だった。電話口の友人の仲が良好なのが窺える。


 康介がそう考えていると、彼女はiPhoneをポケットにしまった。


「はい。私は終わりました」


「凄いですね。テキパキと話せて」


「そうですか? 普通ですよ。それよりもあなたの事が心配です。今日は、会社に出勤するつもりですか?」


 そう聞かれて康介は電光掲示板に視線を移す。時間は最後に確認してから、三十分が経過していた。始業時間までもう数分もない。今から向かっても遅刻は確定だ。

 あと数分で、会社から電話がかかってくるだろう。


 それなのに、不思議と康介の中に焦りや混乱、恐怖はなかった。久しぶりに視野が広がっているのが分かる。知らず知らずの内に相当狭くなっていた。


「会社に遅刻は確定ですね」


「そうでしょうね。どうするんですか?」


 彼女が再度、尋ねてくる。決してこちらを不安にさせる為ではなくて、優しさからくるものだった。今の康介にはそれを汲み取る事が出来る。


「今日はもう、行くの止めようかな。眩暈がしたし、病院に行った方が良いかも知れない」


「私もその方が良いと思います」


 康介の決断に満足そうに彼女は同意して頷く。


 その笑顔に自分の選択は間違っていないのを自覚する。この気持ちが薄れてしまう前に行動しよう。スーツのポケットから社用ケータイを取り出した。


 会社に電話を掛ける。始業十五分前、フロアには間違いなく社員がいる。コール音が耳元で響く中、電話に出たのはよりによって野山係長だった。


「おはようございます、佐々木です」


「ああ、おはよう。どうしたの?」


「すいません。今、駅のホームにいるのですが眩暈がして、ちょっと動けなくなっていました」


「あっ、そうなんだ。大丈夫?」


「はい。ベンチで休んで眩暈自体はもう大分、治りました。ですが念の為、この後病院に行きます」


「という事は、今日は午後から出勤になりそう?」


 午後からの出勤。本当は病院が終わったらすぐに来いと言いたいのを野山係長なりに気を遣っている。

 昨日までの康介ならそれに応じて、午後から出勤していただろう。


 だけど、今の彼はその優しさの一つ上を行く。


「いえ、今日はそのまま休みます」


「えっ? じゃあ今日の仕事はどうするの?」


 予想外の反応に野山係長の声に若干の苛立ちが入る。すぐに返さないと気後れしてしまう。負けじと康介はすぐに返した。


「九時を過ぎたらもう一度、会社に電話します。吉川さんと江本さん、池田さんには仕事の割り振りを話します。徳永さんには別途、こちらから連絡します。もし、至急の問い合わせが発生した場合、野山係長に対応をお願いするよう徳永さんにお伝えしても宜しいでしょうか?」


 康介は自分の考えを言い切った。

 全部一気に言い終えないと、野山係長に封殺されてしまう可能性がある。彼の話を黙って聞いていた野山係長は話し終えたのを察して「話していい?」と聞いてきた。


「はい」


「そこまで言うのなら分かったよ。確かに無理して来られて、昨日みたいに仕事でミスられても後が大変だし。頼んでいた議事録は出来てるんだよね?」


「はい、出来てます。いつものフォルダにデータが入っています」


「じゃあ、今日は佐々木君は休みって事で。さっき話した三人にはもう一度、電話しておいてね。徳永さんにも」


「了解です、ありがとうございます」


「はい、よろしく」


 野山係長との電話が切れた。耳元からケータイを離す。隣を見ると、不安気な表情でこちらを見つめる彼女がいた。


「大丈夫。無事、今日は休める事になりました」


 康介が勝利宣言をすると、彼女は肩を降ろして「ふぅ〜」と長い息を吐いた。


「良かったぁ」


「電話に出た係長は、完全には納得していない感じだったけど」


 野山係長に一気に用件を言い切れたのは大きかった。普段の康介なら絶対に出来ない。全面的に彼女のおかげだ。


 今日は休み。そう考えると実に不思議な感覚だった。

 今朝、起きて家を出る時は出社するつもりでいたのに。こんな時間にまだホームにいる。


 自分を囲む非日常を感じていると、隣の彼女が「さてと、」と声を出して立ち上がる。


「じゃあ、私はそろそろ学校に行きますね。お兄さんが休める事になって良かったです」


「本当にありがとうございます。全て君のおかげです」


 康介も立ち上がり彼女に礼を言った。実際、自分一人だったら、たとえ眩暈が起きても出勤していた。

 野山係長の言っていた通り、それが原因でミスだってしていたに違いない。


「これからはもっと自分を大切にして下さい。世の中にお仕事は沢山あるけど、自分の体は世界に一つしかないんですから」


「そうですね。そうします」


「あと、敬語も止めて下さい。私の方が歳下なんですから」


 指摘されて彼女に敬語を使っていた事実に今更気付く康介。


「あ、はい」


「はい、じゃなくて?」


「分かった」


「よろしい」


 敬語じゃなくなった事に彼女は満足そうに頷く。距離が近くなった事で康介は「あっ、」と思い付いたように声を上げた。

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