「第3章 自分の体は世界に一つだけしかないんだから」(3-3)

(3-3) 


「あらためて今日の事のお礼をさせてほしい。あと、この水のお金は今返すから」


 トートバッグから財布を取り出そうとすると、彼女に制止された。


「お水のお金なんて、本当にいいですよ。それに私は当たり前の事をしただけなので、あらたまってお礼をされる事の程ではありません」


 その当たり前を出来ない大人は康介を含めて世の中には大勢いる。彼女は自分がどれだけ凄い事をしているのか自覚がないようだ。


 油断すればそのまま次に来る地下鉄に乗ってしまいそうな彼女を必死で引き止める。康介は財布を取り出して、水のお金を彼女に強引に手渡した。


「その当たり前に俺は救われたんだ。だから、そのお礼をさせてほしい」


 康介の言葉に二人の間に沈黙が流れた。


 やがて、彼女は観念したように「はぁ」と息を吐いた。


「もう、そんな言い方をされたら断れないじゃないですか」


「ありがとう」


 受け入れてくれた事に礼を言うと、彼女は「でも、」と続けた。


「私、今から学校に行くので、お礼はすぐには受け取れません」


「うん。それは勿論。だからあらためてお礼を、」


「その“あらためて”も急がなくて大丈夫です。体だって、まだ本調子じゃないでしょ?」


「まぁ、そうかも知れないけど……」


 眩暈の感覚は今も完全には治っていない。立ち上がって分かったが、微かに足元にふらつく。康介の状態を把握した彼女はブレザーのポケットからiPhoneを取り出した。


「まずは連絡先、交換しません? お礼の話はお互いの予定を合わせてからで」


「そうしようか」


「はい」


 康介もスーツのポケットからiPhoneを取り出して、連絡先を交換する。そこで彼は初めて彼女の名前を知った。


「えっと弓木 葵さん?」


 名前を呼ばれた彼女が笑顔で頷く。


「はい、そうです。お兄さんの名前は佐々木 康介さん?」


「そうです。佐々木 康介と申します。宜しくお願い致します」


 歳下の女子高生に名前を呼ばれたのが、妙に気恥ずかしくて康介は、取引先の担当と会うように頭を下げた。彼が頭を下げると、彼女も「こちらこそ、宜しくお願いします」と律儀に返して来た。


 頭を下げ合って数秒、「……ぷっ、」葵が小さく吹き出す。続いて康介も笑った。


「悪い。つい真面目に頭を下げてしまった」


「本当ですよ。私までつられちゃったじゃないですか」


 笑いながらそう話す葵。それから少しして、ホームにアナウンスが響いた。


「あ、丁度良いタイミング」


 アナウンスに反応して、康介が呟く。葵も「もう私も行かないと」と返した。「最後に本当にありがとう。学校行ってらっしゃい」


「行ってきます。佐々木さんはこの後、ちゃんと病院に行って下さいね?」


「仕事の電話を済ませたら、病院に行くよ。大丈夫、弓木さんのおかげで一歩を踏み出せたんだから、電話ぐらい楽勝だ」


「本当ですか? それなら良かったです。あっ、地下鉄来た」


 朝のラッシュが抜けたホームには残っていた乗客が列を作っていた。葵はベンチ付近の列に並ぶ。トンネルの奥から地下鉄が到着してドアが開く。

 康介は再び、ベンチに腰を下ろした。乗っていた乗客が降りてきて、葵達が並んでいた乗客と入れ替わる。彼女の列が車内に入り、ドアが閉まる。


 ドアの傍に立っていた葵と目が合った。彼女はこちらに向かって手を振る。康介もそれに手を振り返した。ゆっくりと地下鉄が発車して彼女の姿は見えなくなった。

 一人になった康介は、社用ケータイで会社に電話を掛ける。


 総務に繋がり吉川に電話を繋げてもらった。彼女は既に野山係長から事情を聞いているようで、スムーズに話が進んだ。いつも康介がやっていたOutlookからメールの仕事割り振りも野山係長がやってくれるとの事だった。


 本人と電話をした時はそんな事、一言も言っていなかったので意外だった。江本・池田にも電話を代わってもらい、二人とも話をした。吉川と同じように事情を説明して、三人との通話を終えた。


 続いて徳永にも電話を掛けた。事情を説明すると彼はとても驚いていたが、野山係長が代わりになってくれる事を伝えて安心していた。


 仕事関係の電話を全て終わらせた康介は「よし、」と言葉を漏らして立ち上がる。先程と同じく立ち上がると、まだ足元にふらつきは残る。


 葵との約束通り、病院に行かないと。残り半分になっていた水のペットボトルをトートバッグにしまい、康介は改札を出る。階段は辛いのでエレベーターに乗った。

 地上に上がり、エレベーターのドアが開く。


「すぅ――」


 ずっと地下にいたせいか地上に出ると、空気が澄んでいるように感じた。雲一つない青空はとても綺麗だった。


 さて、行くか。康介はエレベーターから出て、一歩を踏み出した。

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