「第3章 自分の体は世界に一つだけしかないんだから」(3-1)
(3-1)
ーーピピピピッッ。
翌朝、iPhoneのアラームの機械的な音で康介は静かに目覚めた。
「あぁー」
頭が重い。明らかに体には昨日の疲れがまだ残っていた。叶うならこのままずっと眠っていたい。だが、現実はそんな願いを決して聞き入れてはくれない。
石になってしまったのではないかと錯覚してしまう程の重たい体を引き摺るようにしてベッドから起き上がり、身支度を整える。点けたテレビの音声は何も耳に入らない。左上に表示される時間を目当てに点けていた。
家を出ないといけない時間になり、康介はトートバッグを手に取って玄関へ向かう。ガチャリと鍵をかけて外に出た。
朝の空気が頬に当たり眠気が残っていた頭を強制的に起こす。
昨夜、歩いた道を逆走して最寄り駅に向かう。最寄り駅に到着すると、吸い寄せられるように階段を降りて改札を抜ける。
次に来る地下鉄はあと二分後。定刻通りの時間。適当に形成されている列の最後尾に並ぶ。
特に何も考えず、いつものように康介はポケットからiPhoneを取り出した。
その時。
グラッと体全体を激しく揺さぶられる衝撃が康介を襲った。
なんだっ、これはっ!?
目の前がグルグルと回り、浮遊感に呑まれて平衡感覚が消失した。
握力すら定かではなくなり、手からiPhoneが滑り落ちる。ホームに落ちたiPhoneはカンッと耳の遠くで音を立てた。早く拾わないと地下鉄が来る。不安定な体でしゃがんでiPhoneを拾おうとする。
しかし、視界が不安定になった事で揺れ方はよりいっそう激しくなり、iPhoneを探す事など、とても出来なかった。酒に酔っている時のような揺れ方とはまるで違う。次第に吐き気が胃から込み上げて来た。
どうして? なんで?
康介の頭に混乱と恐怖が浮かぶ。
前後に並んでいる人間は、しっかり立って地下鉄を待っている。その中の誰も康介をどうこうしようとする人間はいなかった。
このままでは地下鉄に乗れない。会社に行けない。
そう思った康介の脳裏に浮かんだのは、昨日の野山係長のあの言葉。
“もういいよ。謝られても時間が戻る訳じゃないし”
もし、昨日の今日で遅刻なんかしたら……。想像するだけで全身に寒気が走る。何とか立たないと、息を整えて立ち上がる為に下半身に力を入れようとしていた康介の耳に地下鉄が到着するアナウンスが流れた。
やばい、もうあと数秒で電車が来る。混乱、恐怖に焦りが加わり康介は必死に体を動かす。
手に慣れた固い感触がぶつかり、iPhoneを何とか掴む事に成功した。だが、それで力を使い切ってしまった。
「……クソ」
流れる風の音にすら負ける声量で弱音を吐く。もう、本当にダメかも知れない。
その時、ガシッ! と康介の左手を誰かが強く掴んだ。
「えっ?」
掴まれた左腕は、そこだけが感覚が戻ったみたいに暖かい。左腕に向かって顔を上げると、深刻そうな顔でこちらを見る女子高生の姿があった。
「大丈夫ですかっ!?」
「誰?」
全く知らない女子高生。心配してくれる彼女に康介はそう尋ねてしまう。
「私が誰でも今は良いです。一旦列から抜けましょう。ベンチまで歩けますか?」
「会社が……」
列から抜けてしまうと地下鉄に乗れない。途切れ途切れにそう訴える康介。
「何言ってるんですかっ!? そんな状態なのに! 会社と命、どっちが大切なんですか!?」
命? 彼女の言った言葉が康介の心の深い所に突き刺さる。
昨日の野山係長とは別の場所だ。そんなに危険な状態なのか、俺は。
彼女に言われて初めて、自分自身の状態を客観視する事が出来た。
「ベンチまで行きたいです。すいません、肩を貸して下さい」
「はい。勿論です」
彼女に肩を貸してもらって列から抜けた二人は、ホームにあるベンチへと腰を下ろした。離れた列の前に地下鉄が到着して乗客が一斉に乗り降りする。そんないつもの朝の光景をベンチから遠巻きに眺めていた。
「ご気分はいかがですか?」
隣の彼女に聞かれて康介は力なく首を左右に振る。
「気持ち悪さと眩暈がまだ若干、残ってます」
「自動販売機でお水、買ってきます。待って下さい」
彼女は立ち上がり、近くの自動販売機へ小走りで向かった。肩を落としたまま、顔だけ上げて彼女の姿を追うと、黒い財布から硬貨を取り出してボタンを押していた。ガチャンという音の後、水のペットボトルを持って帰って来た。
「起きられますか?」
「なんとか」
康介はゆっくりと体を起こして背もたれに体を預けた。キャップを開けた彼女は、ペットボトルを彼に渡す。
「焦らずゆっくり、少しずつ飲んで下さい」
「はい」
彼女からペットボトルを受け取って、そっと口を付ける。冷たい水が喉を通って体内に浸透してくる。PCが再起動するように体にゆっくりと動力が戻った。
「落ち着きましたか? まだ辛いなら駅員さんを呼んで来ましょうか?」
「いや、さっきよりは大分楽になったから大丈夫です。あとはこのまま、ここで休んでいれば回復すると思うので」
「本当ですか? 辛い時は我慢しなくていいんですよ?」
何気なく彼女が言った言葉はあまりにも純粋で、康介の心が震えた。思わず自虐的な笑いが漏れた。
「もう何年もずっと辛い時が続いてるよ」
「だからこんな事になっちゃうんですよ。本当に酷い状態でしたから」
「そんなに酷い?」
康介の質問に彼女はハッキリ頷いた。
「はい。真っ青な顔で列に並んで、大丈夫かなって思っていたら、案の定、手に持っていたiPhoneを落として、そのままあなたも崩れ落ちました」
「あ〜、そっか。カッコ悪いなぁ」
「全然カッコ悪くありません。それより目の前で人が倒れてるのに何もしない周りが怖かったです」
確かに彼女が話した通り、しゃがみ込んでしまった康介を誰も助けようとしなかった。それは女子高生の身である彼女からしたら、異様に見えたのだろう。だが、康介には彼らの気持ちも理解出来る。
「倒れてる俺に構ってたら、自分の仕事に遅刻しちゃうでしょう?」
「いや。でも、そんなのは……」
「しょうがない。それにこういう時の為に駅員がいるんだから。わざわざ自分が助けなくてもいいって考えるのは、割と普通だよ」
もし、立場が逆だったら自分は助けるだろうか? それを考えると、康介には彼らを責める気はない。それよりも助けてくれた彼女を心配してしまう。
「俺としては、君の方を心配してしまうんですけど、高校生ですよね? えっと、学校は?」
自分が原因で誰かに迷惑をかけてしまう。そんなのはもう沢山だ。康介の質問に彼女は「安心して下さい」と笑顔で答えた。
「私の事は心配しないで下さい。駅で倒れている人を介抱して怒られる学校になんか通っていません。でもちょっと連絡だけ済ませちゃいますね」
彼女は自身のiPhoneを取り出して電話を掛ける。
「おはようございます、一年二組の弓木ですが、後藤先生いらっしゃいますか? ――後藤先生、すいません。ちょっと今、駅で人を介抱していて少し遅刻すると思います。ええ、はい。大丈夫です。二時間目には間に合います」
隣で彼女が電話口で話している声が聞こえた。テキパキとした感じで話す彼女は自分が高校生の時とは違って大人に見えた。
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