「第3章 自分の体は世界に一つだけしかないんだから」(2-8)

(2-8) 

 

 康介はスーツのポケットからiPhoneを取り出す。携帯しているモバイルバッテリーで充電していたので電池残量は100%。

それが今の自分の現状とは、見事に正反対で面白く感じてしまう。


 iPhoneのロックを解除してホーム画面からホワイトカプセル・サテライトにログインした。現実の世界がどれだけ過酷でもアプリの世界には何の影響もない。『ポー』がチャットルームに入って来たのが分かると、次々にメンバーから挨拶をされる。


 ビキ:『あ、ポーさんだ。こんばんは〜』


 とうふ:『こんばんは、ポーさん』


 ソウ:『ポーさん、こんばんはです』


 普段はそんな事、気にならなかったのに今日の康介は、どうしてかそれが無性に腹が立った。どうせ、『ポー』は何も書き込んでこない。

 挨拶だけ済ませて終わらしておけ。そんな感情がiPhoneのディスプレイの向こうから透けて見えた気がした。


 現実でも、ここでも……。


 そう受け取った時、康介の指は勝手に動いた。




 ポー:『こんばんは』




 普段、教室で話さない静かな奴がいきなり話し始めたら周囲はどうなるか。まさにそれが今、このチャットルームで起こっている。


 ビキ:『えっ!?』


 とうふ:『ポーさんが書き込んでくれた』


 まずビキが驚いて、それからとうふも続いて驚く。


 ソウ:『ポーさん、書き込んでくれて嬉しいです』


 ソウが如何にも年長者らしい空気を出してポーを歓迎する。


 そんな事が康介は更に癪に障った。年齢を誤魔化している自分をあたかも歳下のように接してくるその態度。可視化されないストレスが生まれてポーの指を更に動かす。


 ポー:『あのさ、流れ無視して書き込んで悪いんだけど俺、実はこのアプリの利用規約に違反してる。本当は二十六歳。だから、上から目線は止めろ』


 勢いに任せた書き込みがチャットルームに表示された。康介の書き込みに誰も反応を示さない。衝撃的で誰も言葉が出ないようだ。

 それを良い事に、康介は書き込みを続ける。


 ポー:『こんな時間になってもついさっきまで働いていたブラック会社の社畜様だ。なんで他人にボロカス言われて自尊心を崩壊させてまで働いているのか。意味分からねぇよ。大した給料も貰ってる訳じゃないのにな。その給料も税金やら家賃やらでどんどん引かれていくんだぜ? こっちは一生懸命生きてるだけなんけどな。三人は俺が何を言ってるか分からないと思うけど、あと数年でこんな未来が待ってるからな』


 体の奥底に溜め込んでいたストレスが一気に放出されていく。何の為に働いているのか、そもそもどうして生きているのかすらも、既にポーには分からなくなっていたのだ。


 尚も三人はチャットに書き込みをしてこない。

 次第に自分が場の空気を壊している自覚が湧いてきていた。一度した書き込みは消す事が出来ない。確か利用規約にも書かれてあった。ストレスを放出して、多少なりとも冷静になった康介。


 ポー:『これで最後の書き込みだ。場の空気を壊してごめん。言いたかったのは、ここにいる未来ある三人には決して、俺みたいにならないでほしいって事。二度とログインしないから許してほしい。話を聞いてくれてありがとう』


 康介はアプリから逃げるようにログアウトする。


 ホームに地下鉄が到着するアナウンスが響いた。トンネルの奥から地下鉄ライトを光らせた。康介は近くにあったドアから乗って、空いていたシートに腰を下ろす。いつも眺めていたアプリを最後の最後。憂さ晴らしをするように使ってしまった。


 三人には申し訳ない事をした。突然、喋り出して言い切りで逃げた無口だったアカウント。今頃、自分の悪口で盛り上がっているだろうか。

 そうだったらいいなと、康介は素直に思った。


 康介はその手にずっとiPhoneを握りしめていた。ログアウトしたアプリに再ログインする真似は出来ない。音楽も聴く気はないし、ネットもする気はない。それなのにポケットに入れずに手に持っていた。それが彼に出来る必死の抵抗だった。


 最寄り駅に到着して、改札を出る。駅前にあるお店は殆どシャッターが降りていて開いているのは牛丼屋、蕎麦屋。そして少し歩いた場所にマクドナルド。やはりどれも食べる気がしない。当初の予定通り、康介はコンビニでカロリーメイトとウィダーインゼリーを購入した。


 マンションに向かって真夜中の住宅街を歩く。この道も朝になれば、また反対方向へ歩くのだ。マンションに到着して、自分の部屋に帰る。


 ガチャリとドアを開けて玄関に入ると、朝の空気がそのまま保管されていた。洗面所で手洗いとうがいを済ませてシャワーを浴びる。疲れをとにかく早く洗い流したいという欲求があった。その為、買って来た晩御飯は台所に置きっぱなしである。


 シャワーを浴びて僅かでも疲れが回復した康介は、部屋着に着替えると、ウイダーインゼリーを喉に流し込む。多少、温くなってもまだ充分飲めた。


 ゼリー状のそれを一気に飲み干して、同じくカロリーメイトに手を伸ばす。袋を開けて、手早く食べ終える。回復はしたとは言っても食欲は無かったので、これ以上はいらなかった。台所で食べ終えた康介は、MacBookProの電源を点けようかと迷ったがiPhoneで時間を確認すると、一時を過ぎていたので止めた。


 洗面所で歯ブラシを終えると、部屋の電気を消してベッドへ向かう。


 ボスッと乱暴な音を立てて、ベッドに倒れ込む。

 これだけ疲れてるのだから、すぐに眠る事が出来ると考えていたが、予想に反して眠気は中々訪れてくれない。

 何度か寝返りをして、枕元のiPhoneを手に取った。真っ暗な部屋に人工的な白い光が強く光る。目が冴えてしまったが、どうせそもそも眠れなかったので大した問題ではなかった。


 結局、それから一時間近くiPhoneでネットをしてやっと眠気が訪れ、気絶するようにして眠った。

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