「第3章 自分の体は世界に一つだけしかないんだから」(2-7)

(2-7)


「はい」


 康介はイヤホンを外し、急いで野山係長の下へ向かう。


「徳永さんと話は付いた。取り敢えず明日の工事は予定通りに進める」


「……やはり一度、発注してしまった工事は止められないからですか?」


 康介がおそるおそる尋ねると「それ以外に何がある?」と逆に聞き返されてしまった。「そうですよね、すいません」至極当たり前の事実を聞いてしまった事を野山係長に謝罪する。


「徳永さんにさ、佐々木君をあまり責めないであげてと言われたよ」


「いえ、悪いのは僕ですから」


「と言うか、俺も怒り疲れてるから。そんなに無限に怒れる程、若くないし」


 野山係長の言い方は、打ち合わせスペースで最後に話した感じと似ていた。


 相手に一切の関心を失くした感じだ。


 今までの人生で数回、康介はそれを間近で見て味わった事がある。


「俺、もう帰るわ。残ってる仕事は明日やる。今日、家族と予定あったし。まぁ遅れるのは確定だから別にいいけど」


「すいません……」


「もういいよ。謝られても時間が戻る訳じゃないし」


「すいません」


 謝らなくていいと言われても康介には謝る以外の選択肢を知らなかった。


「はいはい」


 野山係長はこちらを見ずにそう答えて自分のPCをシャットダウンする。シャットダウン中のディスプレイのまま立ち上がり、ハンガーラックに掛けている自分のジャケットを羽織ると、デスク下に置いているビジネスバッグを手に持った。


 その間、傍でずっと立っていた康介に「どいて?」と小さく言った。


「あ、すいません。お疲れ様です」


「はい、お疲れ」


 野山係長は康介の横を通って、フロアの出口へと向かう。その際、周囲の人間が口々に「お疲れ様です」と彼に挨拶した。それらに「お疲れ」と返して係長は、フロアから出て行った。バタンっと無機質な音がフロアに響く。


 閉まってすぐには自分の席には戻れなかったが、数秒して体が動いてくれた。


 席に戻ってからもすぐには仕事をする気にはなれなかった。マウスとキーボードに手を乗せて、目をディスプレイに向けているところで止まっている。まるで、電池の切れかけているオモチャのようだった。


 野山係長の言う事はもっともで反論の余地はどこにもない。ただ、それはイコール康介の心が傷付かない事とは別だ。

 人間は何歳になっても言葉で傷付く生き物なのだ。


 涙が大人になって流れなくなり、傷付く度にかさぶたが厚くなり耐性は付くようになった。でもやっぱり、一定以上のダメージはかさぶたを突き破る。


「ふぅー」


 再び康介は息を吐いて、デスクに置いていたお茶のペットボトルに手を伸ばす。蓋を開けて、口を付けた。常温になっていたお茶が喉から伝わってきて、心に薄い膜を張った。応急処置を済ませて、デスクの上を見た。


 まだまだ仕事が沢山ある。議事録に二人の成果物のチェック。明日の三人分の仕事の用意もそうだし、自分自身の仕事もある。


 そう、やる事は山積みだ。これらを片付けないと家に帰れない。


 康介は重い体を動かして、仕事に取り掛かった。


 半分出来上がっていた議事録を進める。イヤホンから流れてくる会議の音声から必要な箇所を抽出して、更に会議の概要と次回までに各自の課題を全て入力する。余計な事は考えず頭を空っぽに書くのは、とても楽だった。


 議事録の作成は完了すると、今度は二人の成果物に目を通してく。互いに出来ている箇所とそうでない箇所があるので、修正して本人に伝えるべき箇所には、チェックを付けておく。


 吉川はそういった箇所は少ないが、池田にはそれなりにある。彼女の成果物に貼られた付箋は一つ一つが細かく、こちらも考えなければいけない物もあった。


 それらを済ませて康介が自分の仕事にようやく取り掛かれた時、時刻は二十二時を過ぎていた。もうフロアには誰もいない。自分の座っているシマを除いて、他は照明が落とされている。誰もいない社内でキーボードを叩いてExcelデータベースを入力している。


 二十三時までには会社を出たい。康介はその想いで仕事を進めていた。この時間になれば、もう外線はないし仕事に集中出来る。野山係長によるダメージもゆっくりではあるが、消化が進んでいた。


 ようやく今日の分の仕事が終わる頃には、最初の目標としていた二十三時を超えてしまっていた。


「終わったぁ!」


 全ての仕事が終わり、誰もいないフロアで康介は声を上げる。多少ハイになっているのかも知れない。自覚はあった。


 やっと訪れた解放感を味わってから、PCをシャットダウンし戸締りと電気の確認をしてフロアを出る。エレベーターを降りて会社から出ると、外はもう真っ暗だった。


 代行会議から帰って来た時は、真っ赤な夕焼けだったのに本当に時間が流れるのはあっという間だ。東京メトロの最寄り駅まで歩いて、改札を抜けてホームに降りた。


 電光掲示板で地下鉄の到着を確認。運悪く行ってしまった直後のようで、表示が切り替わっていなかった。少しして表示が変わり、次の電車が到着するまであと六分程であった。これで家に帰って眠ったら、すぐに朝が来る。


 そうなったら、また会社に出勤して仕事をしないといけない。わずか数時間後の未来を想像するだけで康介の心に疲労が溜まる。

 正直、夕食は何も食べたくない。コンビニでカロリーメイトとウィダーインゼリーで済ませてしまおう。まるで、風邪を引いてるみたいだと思った。


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