「第3章 自分の体は世界に一つだけしかないんだから」(2-6)
(2-6)
ため息混じりの野山係長の了承を聞いて、「ありがとうございます」と礼を言うと、康介は至急案件に関する資料を持って、打ち合わせスペースへと向かう。
後ろから野山係長も付いて来た。打ち合わせスペースへと入り、スペース前に掛け札を〔使用中〕にする。
二人が対面上に座ると、資料を広げた康介は時系列に沿って説明を始めた。
関連会社の担当である遠藤が今日は休みだという事。
代理で対応してくれた片倉さんに現状を確認してもらうと、システム上、決裁が通るのが明日になっているという事。
徳永さんに電話したところ、決裁がもう通ると聞いていたので、明日朝イチの予定で発注をかけてしまったという事。
余計な感情は入れず順を追って客観的に説明した。途中で野山係長に止められていると思っていたが、康介の話を腕を組んで黙って聞いていた。
「――現状は以上です」
康介が説明を終えると、野山係長は上を向いて「ハァ〜」とため息を吐いた。その動作がわざとらしいと思えるくらい大げさな動作で恐怖で体が震えた。
「それで? この状況を佐々木君はどうすればいいと思っている?」
「えっと、正直僕は今日中に決裁が通ると約束してくれた遠藤さんにも非があるのではと、思っています」
「だから?」
「たとえ決裁が通っていなくても既に発注をかけている事ですし、予定通り明日の朝イチで工事をしてもいいんじゃないでしょうか」
会社に帰るまでに頭の中で作った意見を康介は説明する。
徳永だってこちら側のミスではないという事は理解してくれている。悪いのは遠藤なんだから、何かを言われる筋合いはない。
康介がそう考えていると、野山係長は肩を落とす。
「佐々木君は、決裁が通っていない状況でも工事をしろと、徳永さんから作業会社に命令しろって言いたい?」
「いや、」
「いやじゃなくて、命令しろって事かを聞いてる」
言い淀んでしまった康介を捕まえて、野山係長が詰めてくる。彼の聞き方に威圧されてしまった康介は、質問に答えられず黙ってしまう。
バンッ!!
目の前で野山係長がテーブルを叩いた。パーテーションを突き破るほどの轟音が鳴った。
「出来る訳ないだろうが! 無許可で工事なんて!」
「だけど……、」
悪いのは全部遠藤であるとは言えず、途中で口が止まる康介。だが、口にしなくても野山係長にはそんな考え、見破られていた。
「さっきから向こうの担当のせいばっかりにするなよ! 大体、佐々木君がソイツの休みを知ったのはいつだよ!?」
「代行会議の後です……」
「そうだよなぁ!? もっと早くに確認出来たら、少なくとも工事の発注は止められたんじゃないのか!?」
野山係長の言う事に何一つとして、間違いはない。
「はい。その通りです」
「そうだろ!? 決裁が通るって分かったからって安心して放置しちゃダメだろうが! 少なくとも今日の午前中に電話して、何時頃に決裁が通るか聞いておけば、そこで判明してたんだよ! 気を抜いてんじゃねぇよ!」
「……すいません」
降り注ぐ野山係長の怒号を何とか受け流して頭を下げる。今の康介に出来るのはそれが精一杯だった。彼の態度に野山係長は、今日何度目か分からないため息を吐く。
「もういいわ。資料全部頂戴。ここから先は俺が対応するから」
「すいません。お願いします」
テーブルに置かれた資料を手に取ると、野山係長は立ち上がる。
「佐々木君は代行会議の議事録作っておいて」
「はい」
「さっき明日の午前中って言ったけど、今日中に出来るよね?」
「出来ます」
康介にそれを否定する意思も権利もない。
「はい、よろしく」
野山係長は最後にいつもの言葉を言って、打ち合わせスペースから出て行った。彼が出て少ししてから、康介も立ち上がり打ち合わせスペースを出る。パーテーションで区切られた世界からフロアに戻ると、周囲の視線を感じた。
注目を浴びるのは当然だ。
周囲の視線から逃げるように下を向いて康介は自分の席へ。PCのスリープ状態を解除してログインする中、野山係長が電話をしている声が聞こえた。
普段は聞こえないのにこういう時だけ嫌でも耳に入ってくる。ログインされたPCのディズプレイを見ると、席を離れていた間にもOutlookには続々とメールが受信された。内容を確認して至急案件がない事が分かると、言われた通り議事録の作成に取り掛かる。
ICレコーダーにイヤホンを挿して会議の音声を聴く。要点をまとめていく中で時折、談笑する声が聞こえた。ああ、そうか。この時はまだこんなに平和だったのかと冷めた感情で聞いていた。
議事録の作成を始めて、三十分が経つとフロアに終礼を示すチャイムが鳴った。全員が作業の手を止めて立ち上がる。部長が簡単な説明を終えた後、挨拶をして席に座る。
残業予定のない従業員は帰り支度を始める。ガヤガヤとした雰囲気に包まれる中で康介は、議事録作業の手を止めて立ち上がりいつものように二人の下へ向かった。
二人の所にも打ち合わせスペースからの怒号が届いていたので、いつもより随分、大人しい。二人に何か落ち度がある訳ではないので、普通にしてくれて構わないのだが、難しいのだろう。
康介も普段と変わらないように接して、二人から成果物を受け取る。
簡単な仕事の話をして、二人がフロアから出て行った。自分の席へ戻る際、視線を上げて野山係長の様子を窺うと、まだ電話を続けていた。
係長は終礼時にも電話を継続していた。早く電話を終えてほしいという気持ちと、終わったらまず呼び出されるだろうから、長く続いてほしいという相反する気持ちが混ざり合っていた。
「ふぅー」
誰にも聞こえないように小さく、そして細く息を吐いた。自分の席へ戻り中断していた議事録作りを再開させる。今、出来る最優先は、これしかない。
いつも以上に完璧にする。自分自身にそう強く言い聞かせた。
議事録の作成作業が中盤を超えた頃、イヤホンの外側から「佐々木君!」と自分を呼ぶ野山係長の声が聞こえた。
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