「第4章 ソウ」(3-1)
(3-1)
大学が始まる前に兄の頼みを解決出来るのは本当に良かった。
きっと来月からの大学生活で忙しくなるのは目に見えている。
栞菜にとって、ちょっとしたアルバイトの認識だった。兄もこの日だけは上京するらしい。自分の下宿先であるマンションに泊まるかと提案したが、日帰りで帰ると断られてしまった。
新宿駅の改札で兄と待ち合わせて、事前の打ち合わせも兼ねて待ち合わせの四十分前に兄とスターバックスへ向かう事に決まった。
まだ東京にきてから一週間、最寄り駅周辺のスーパーや家電を買う為に訪れた秋葉原ぐらいしか行っていない栞菜は、初めての新宿駅に戸惑っていた。
地元の最寄り駅の何倍もの人が往来している。週末だからとも思ったが、スーツ姿の人も多い。これから四年間、自分は東京の人の多さに慣れるのだろうか。
新宿駅を歩く人の多さに戸惑っていると、改札の向こうから兄の姿が見えた。家で会っていた兄と、ここで会うのは新鮮だった。
「栞菜、お待たせ」
「あ、うん」
戸惑っていた栞菜に兄は平然と話かけてくる。最近の兄は、ほぼ高校生の頃の兄に戻っていった。目の前にやる事があると、人は変われるものだと思った。
「新宿はまだ来た事なかったのか?」
「うん、今日初めて来た」
「そうか。きっとこれから沢山来ると思う。今日は半分、観光ぐらいの気持ちでいてくれたらいいよ」
「それはちょっと難しいけど……」
「そりゃそうか」
少し笑った兄と二人で新宿西口のスターバックスへと向かう。隣の車道側を歩く彼の歩幅は栞菜に合わせて緩やかだった。
元々、兄はこういう気配りが出来る人だった。
信号待ちで並んだ際に彼の横顔に視線がいく。
それに気付いているのか兄は「ふぅ」短く息を吐いてから、こちらを向いた。
「今日、栞菜が動いてくれて感謝してる。ありがとう」
「お礼は何度も聞いたからもういいよ。言っとくけど、これで最後だからね」
大学生活が始まってからもお願いが続いては困るので栞菜はしっかりと釘を刺す。兄は頷いて「分かってるよ」と答えた。
横断歩道を渡り、二人は新宿西口のスターバックスへ到着した。
透明の重たいドアを開けて中に入った。店内には多くの客で賑わっており、レジ前には行列が出来ていた。てっきりその行列に並ぶのかと思ったが、兄は慣れた様子で奥へと進んでいく。
「まずは、席を確保しよう」
兄の提案に頷いて返して二人は店内奥へ。奥に並んでいるテーブル席に空きを見つけた。外から見えない位置にある。
今日の為にまるで誰かに用意されたみたいだった。
「栞菜はここに座って。俺はカウンターに座ってる」
「えっ? まだ時間あるよ?」
打ち合わせの為に待ち合わせ時間より四十分も早く到着したのだ。今はまだ同じテーブル席に座っても大丈夫なはずなのに。栞菜の質問に兄は首を左右に振る。
「とうふ君が早く着くかも知れない。少しでも慎重になるべきだ。カウンターからでもショートメールでやり取りは出来るから」
兄はそう言ってテーブル席にハンカチをカウンター席には自分のカバンを置いた。本人が払うと言って聞かなかったので、素直に甘えてカフェミストを注文する。持ってきてもらう時に上からシナモンも振ってもらった。
「ありがとう」
カフェミストをテーブルに持ってきてくれた兄に礼を言った。
「俺はカウンター席にいるから」
カウンターに座った兄は栞菜の席からだと、ギリギリ背中が見える。見える位置に座ってくれて安心出来た。
二人はそれからショートメールで今日の全体的な打ち合わせを行った。
今日はスターバックスでとうふとの会話に時間を使い、外に出ても昼食までとして夕食は食べない。栞菜はソウとして接する。
今日までにチャットログとDMのやり取りは大方読んでいる。
なりきる事は可能だ。
それでもどうしても難しい場合は、お手洗いや電話等があると言って、兄に連絡をする。本当に最悪の場合には走って逃げるのも選択肢には入っている。
兄は会っている間、ずっとバレないように付いていく。
打ち合わせと最終調整を終えて、二人は時間を潰した。
待ち合わせの時間五分前、スターバックスのドアが開いた。入って来た一人の男性は、店内奥へと入って来る。彼がとうふだと栞菜は一目で分かった。
不安そうに周囲を見回す男性。事前情報では栞菜より一つ歳上との事だが、第一印象では幼く見えた。文庫本を読むふりをしながら、目印となっている金色の三日月のストラップと黒いレザーケース(この日の為に兄が両方用意した)を自然な動作でテーブルに置く。三日月のストラップを見て、男性の足が止まった。
栞菜は文庫本をパタンと閉じて、顔を上げて彼と視線を合わせる。彼が茶色のiPhoneケースを見せてきた。それが合図となる。
今、この瞬間から自分は栞菜ではなく”ソウ”となるのだ。
瞳を少し大きく開いてから口を開けた。
「とうふ君?」
「ソウさん、ですか?」
ソウと呼ばれた事に戸惑わないように気を付けて栞菜はコクンと頷いた。
「良かった、会えた。ほら、座って座って」
相手に余裕を与えないまま栞菜は自分のペースを作り、彼に座るように促す。
彼は素直に腰を下ろしてくれた。
それから二、三会話を往復しながら、彼の様子を観察する。
傍から見ても分かるくらい、彼は緊張していた。もっともこのまま緊張してくれていた方が余計な問題が起こらなくて栞菜としては助かる。
そう考えながら適当に会話を交わしてわざとらしく「あっ」と声を上げる。
「そっか。まだ注文していなかったね。私が座らせちゃったのか、ごめん」
「いえ、全然。取り敢えず注文してきますね」
「うん、行ってらっしゃい」
彼は立ち上がりレジへと向かった。
レジ前には三組の客が並んでおり、最後尾に彼が並んでいた。彼が離れると早速、栞菜のiPhoneに兄からショートメールが届く。
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