「第3章 自分の体は世界に一つだけしかないんだから」(2-3)

(2-3)


 一日最大の楽しみが会社を出た時の解放感というのは、我ながら情けない話だと分かってのだが、どうしても気持ちに嘘はつけない。信号待ちの中、車の走行音に消されるぐらい小さな声で「ははっっ……、」と自虐的に笑い声を漏らした。


 翌日。


 またいつものように朝に起きて、会社に出勤して仕事をこなす。今朝、届いたメールに加えて昨日用意していた吉川・池田用のプリントを手渡して、作業に入ってもらう。


 康介も自分宛に届いていた問い合わせメールを処理していた。


 出勤して二時間が経過した十一時。


「佐々木君っ!」


「はい」


 野山係長から呼び出しを受けた。仕事も順調であと少しで昼休憩なのに。彼の下へ向かいながら何を言われるかと考える。


 徳永から問い合わせ? 昨日の今日でまた、自分を飛ばして野山係長に問い合わせをしたのだろうか。それだったらいい加減にしてほしい。


「何でしょうか?」


「悪いんだけどさ、十五時からの市役所の会議に代行で出席してくれないか? 本当は俺が行く予定だったんだけど、今やってる案件が終わりそうになくて、今日は会社から出られそうにないんだ」


 怒られる訳ではないと判明すると、反射的に安心してしまう。すぐに頭を切り換えて現状を考えた。今日は元々チームメンバーが一人少ない日で加えて、もう一人は午前中にいなかった。


 これで急な問い合わせが発生したら、対応出来ない。


「あの、野山係長?」


「なに?」


「今日、チームにいるのが僕と吉川さんの二人だけなので、僕が外に出るのは、ちょっと難しいと思うんですが……」


 野山係長だって部下の出欠ぐらいは把握しているはず。康介がそう言えばそれ以上は言ってこないと思っていた。しかし、


「大丈夫大丈夫。俺が佐々木君の問い合わせもやるから」


「え? 係長は忙しいのでは?」


 社内から出られないくらいなのに問い合わせ対応まで行うのは、無理なのではないか? そう思って疑問を投げる。


「あー、佐々木君の抱えてる案件ぐらいなら、どうにでもなるでしょ? そもそも俺が担当してたんだし」


「そう、ですか。分かりました。それなら十五時の会議の代行出席行かせていただきます」


「助かるよ。あとで資料をメールするから目を通しておいて。何か今日、重要な事はあった?」


 野山係長にそう聞かれて康介は、例の徳永からの至急案件が頭に浮かんだ。


「えっと、昨日の徳永さんの至急案件。あれの決裁が今日通る事になっています」


「はいはい。昨日の問い合わせのやつね」


「そうです。決裁が通ったら、徳永さんにメールで伝えて許可データを送る流れになっています」


 康介がそれを伝えると野山係長が頷いた。


「了解。決裁が通ったら俺から徳永さんに送っておくよ」


「宜しくお願いします」


「はい、よろしく」


 野山係長の席を離れて自分の席に戻る。席に座って、すぐにまた立ち上がり吉川の席へ行く。あと少しで昼休憩の状態で社員の康介が来たので、彼女は眉を顰めた。


「吉川さん」


「何ですか?」


「さっき野山係長に頼まれて、十五時から市役所で行われる会議に代行で出席する事になりました。終わり次第すぐ帰るけど、定時に間に合わなかったら、俺の机に朝、渡したプリントに進捗を書いて置いといて下さい」


「了解です」


「あ、あと俺が出てる間は野山係長が問い合わせ対応してくれますから」


 康介がそう話すと、吉川は「えっ?」と声を出して顔を曇らせた。


「いや、大丈夫だと思いますよ。本人もやれるって言ってましたから」


「……だといいですけどね。それも了解しました。午後から来る池田さんにも伝えて置いて下さいね」


「勿論。伝えておきます」


 吉川に話終えてから、康介は自分の席に戻る。スリープ状態のPC を点けてパスワードを打ち込んで、再度ログインする。Outlookを開くと既に野山係長から会議資料がメールで送られていたので、早速目を通した。どうやら会議は今回で三回目らしく一回目、二回目の議事録と資料が添付されている。


 康介はそれに目を通して午前中の残りを全て使い切った。


 一時間の昼休憩後、昼食を食べて少し眠くなった頭を動かしていると、池田が出勤して来た。姿を確認すると、すぐに康介は彼女の席へ行って、今日の分の仕事を配布すると、事情を説明した。


 康介が会社を出る事が分かると案の定、池田は「えっ……?」と不安な顔を見せる。彼女を不安がらせないように精一杯、慰めた。


「大丈夫。分からない箇所があったら吉川さんか野山係長に聞いて下さい。二人に聞くのが難しかったら、帰ってから俺が見るのでプリントにメモ書きを残してくれれば大丈夫です」


「はい、分かりました」


 自分で言っておいて何だけど、彼女は間違いなく二人に聞かずにメモ書きを選ぶだろう。一応、渡しているプリントに緊急性はないので、それでも対処は出来る。

 せめて江本がいてくれたらと思いつつも康介は、「よろしくお願いします」と池田に言って、自分の席に戻って行った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る