「第3章 自分の体は世界に一つだけしかないんだから」(2-2)
(2-2)
徳永は康介の父親ぐらいの年齢で野山係長との付き合いも長い。本人にも野山係長と電話する方が慣れているのだろうがこちらの事情も考えてもらいたい。
康介がそう考えていると徳永は何かを察したようで「あ〜、そうだよね。ごめんね? 野山ちゃんに怒られちゃった?」と聞かれたくない事を茶化すように指摘された。微かに湧いた余計な感情を抑えて笑って誤魔化した。
「いや、まぁ、そのあたりは問題ありません。ただ野山は打ち合わせ等で社外に出ている事も多くて、対応が出来ない時がありますので」
「そうだよねー。昔からの付き合いでつい、聞いちゃうんだよなぁ。ごめん、今度から気を付けるよ。至急案件の対応、助かりました」
「了解しました。明日、決裁が通り次第、ご連絡させて頂きます」
「うん。こっちも手配の準備だけ先に進めとくよ」
「了解しました。それでは失礼致します」
「はーい。失礼します」
徳永との電話が終わった。案件の事を忘れないようにポストイットにメモを書いてモニター横に貼っておく。最後に一連の報告をしなければと康介は重い腰をあげて、野山係長の席へと向かった。
野山係長は先程の出来事など、もう興味がないようだった。パソコンのディスプレイに目を向けてメールを書いていた。
「野山係長、先程の至急案件について、報告宜しいでしょうか?」
「ああ。いいよ」
こちらを見る事ない野山係長に向かって康介は一連の流れを説明した。報告中も最後まで彼はこちらを向く事なく、メールを書き続けていた。
「――以上です」
「はい、よろしく」
いつもの返事が来たので「失礼します」と頭を下げて自分の席へと戻る。
イレギュラー対応の仕事が終わり、想定外の疲れが溜まる。本来のペースに戻さないと。そう考えて康介はデスクに置いていた缶コーヒー残りを一気に飲んで気合いを入れ直して、案件を処理し始めた。
十八時になり終業時間となった。チャイムが鳴りフロアにいる全ての人間が立ち上がり、終礼を行う。課長が前に出て簡単な連絡をして、終礼は終了となった。途端に社内は学校でいう放課後という状態になった。
康介は反対側の列にいる準社員、派遣社員達の席へと向かう。彼女達は正社員の自分達と違って残業をしない。その為、康介が外線に捕まってしまうと最悪、帰ってしまう場合がある。そうなる前にこちらから捕まえないといけない。
彼女達の列へ行くと三人共、まだ帰らずPCの電源も点けていた。
「皆さん、お疲れ様です」
康介が空いているイスに座った。帰り支度を進めていた三人は彼が来た事でその手を止めた。「「お疲れ様です」」「お疲れさまでーす」と口々にそう答える。
三人が康介の下に集まって来た。
「今日の進捗はどんな感じですか?」
康介の質問にまず準社員の吉川から報告を始める。
「朝に振られた分は全部は終わっていません。メールをプリントして、進捗状況をメモしています」
「了解です。残った分は僕の方で引き取ります」
吉川からメールが印刷されたプリントを受け取る。あと三枚残っていた。
「お願いします。では、お疲れさまでーす」
プリントを渡して自分の仕事は済んだと判断した吉川は、PCをシャットダウンして、フロアから出て行った。
「えっと、江本さんと池下さんはどうですか?」
康介は残る二人の派遣社員に進捗を尋ねる。
「あ、私は今日の分は全部終わりました」
まず江本が午前中に渡していたプリントに全部“✔︎”を付けて返してくれた。江本は康介が入社後に来た派遣社員。要領がよく、一度教えた事は何でも吸収してくれるので、チームの戦力としてとても重宝している。
「ありがとうございます。江本さん」
「いえいえ。では私もこれでお疲れ様でした。次の出勤日は水曜ですね。宜しくお願いします」
「はい。お疲れ様でした」
「じゃあね、佐々木さん。頑張ってね」
立ち上がって帰る江本からエールを送られた。
彼女から送られたエールに「頑張ります」と笑って返す康介。江本は黒いリュックを背負ってフロアから出て行った。
江本は親しみやすくて仕事も頼みやすい。しかし彼女は週に三日しか出勤出来ないのが辛い。一番忙しい金曜日にいてくれるだけで有難いと思うしかない
小さく口から息を吐いて、最後に残った池田に声を掛けた。大人しい彼女はこちらから声を掛けるまでは、話し掛けてこない。
「ごめんなさい……振られた仕事。半分しか出来ませんでした」
申し訳なさそうに両手でプリントを差し出して来る。
「全然大丈夫ですよ。出来ているところまでで」
康介は池田からプリントを受け取る。
「いつもすいません……」
「いえ。何か分からない箇所とかありました?」
「それは無かったです」
康介の質問に首を左右に振って否定した。という事は、分からない箇所が無かったにも関わらず、時間内に終わらなかったのだ。池田は江本と違って仕事のスピードは早くはない。酷い時には三分の一も進んでいない時だってある。
公平を期す為に江本と同じ量の仕事を振ってはいるが、いつも必ず残す。その事を吉川は良く思っていない。直接、何かを言っている訳じゃないけど、態度に出てしまっている。でも、少しずつ仕事スピードは上がっている。
このペースでいけば、いずれは江本と同じ仕事量も全部終わらせてくれる。
康介がそう考えていると池田が「あの……、」と声を出した。
「はい?」
「明日は病院に行くので午後からの出勤になります」
「あ、了解しました」
池田は二週間に一度。午前中に病院に通院してから出勤して来る。それは彼女が入社した時から決まっており、会社も了承していた。何の病気かなんて聞かないが、単純に午前中の戦力低下の方が辛かった。
明日は江本もいないので午前中は吉川と二人。案件メールや問い合わせに変なのがないか祈るばかりである。
「では、お疲れ様でした」
「はい。お疲れ様です」
池田はそう言って彼女はフロアから出て行った。自分以外の全員が帰ったので、最後に彼女達のPCがシャットダウンされているかをチェック。ちゃんと消えているのを確認してから、康介は自分の席へと戻った。彼の手元には三人から受け取った今日の仕事の進捗が書かれたプリントがある。
間違いがないかの確認は今日中に済ませる必要がある。明日には、また新規の仕事を振らないといけないのだ。
「ふぅ」
康介は口から息を吐いて集中力のスイッチを入れ直すと早速、三人の仕事の処理に取り掛かった。出来上がっているもの、出来上がっていないもの。それぞれを確認して修正が必要なものには手を加えて、何もされていないものには、最初から組み上げる。
時間はどんどん流れていく。就業時間内の一時間より、残業時間の二時間の方が康介には遥かに早く進んでいるイメージがあった。
彼女達の処理を全て終える頃には二十時を過ぎていた。まだ月曜日だというのにやっている事は、いつもの残業と変わらない。
ここからやっと自分の仕事を進めていく。二十一時半を過ぎた頃、ようやく全ての作業が終了した。
もう康介に昨日までの気持ちはない。
頭にあるのは、これがあと四日続くのかという気持ちと、これでやっと家に帰れるという気持ちの二つである。
今から会社を出て最寄り駅に到着すると二十二時を超える。大体のお店は既に閉まっている。今日は二十四時間営業の蕎麦屋になりそうだ。
康介は余計な火の粉が飛んでこない内に自身のPCの電源をシャットダウンして、手早く帰り支度を済ませると「お疲れ様です」とフロアに残っている社員に挨拶して、逃げるように会社を後にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます