「第3章 自分の体は世界に一つだけしかないんだから」(2-4)
(2-4)
十五時から始まる市役所の会議。会社から市役所までは大体五十分かかる。
余裕を持って出掛けるとして、区切りは付けておきたかった。十四時前まで仕事を進めつつ、予め印刷しておいた会議資料をトートバッグに入れて、ハンガーラックに掛けているジャケットに袖を通した。
出発前に野山係長の下へ伝えに行く。
「野山係長、代行会議に行ってきます」
「うん、よろしく」
野山係長はExcelで資料を作成していて、作業の手を止めずに返事をした。
「僕がいない時の問い合わせもお願いします」
「はいはい。やっておくから」
「よろしくお願いします」
野山係長の言葉に会釈してから、康介は会社を出た。昼休憩以外でまだ夜になっていない外を歩くのは、久しぶりだった。東京メトロの最寄り駅まで歩いて、改札を通ってホームまで降りる。市役所の最寄り駅は家に帰る時と同じ路線だった。電車はあと少しで来る。ホームにはサラリーマンの姿も何人か見かけるが、同じように仕事があって外出しているのだと分かる。彼らの顔にまだ力が入っているからだ。
地下鉄が到着して康介は車内に乗り込む。空いているシートが目に入り、腰を下ろした。ドアが閉まり地下鉄が発車する。
このまま家に帰りたいなぁ。
ふと、康介はそんな事を考えてしまう。丁度、トートバッグに私物は全部入っている。会社に何か忘れ物がある訳ではない。PCが点いているぐらいだ。帰ろうと思えば全然帰れる。
仮に、本当に帰ったりしたら翌日がどうなってしまうか。
想像するだけで恐ろしい。余計な事を考えないようにしようと康介は、良い機会だとトートバッグに入れたままになっていた文庫本を取り出した。
取り出したのは学生時代に追いかけていた作家の新刊。読んでいてどんなに辛い展開になっても必ず最後は救いのある結末になる。
それが康介は好きだった。学生時代は新刊が出る度にすぐに買って読んでいた。しかし、社会人になると読む時間が作れない。本を読むのに時間を作る必要があるなんて、知らなかった。この本も買ってから長い間、ずっとトートバッグに入れっぱなしになっている。
市役所のある駅までは、あと三十分程度で到着する。iPhoneの電波が不安定な中で時間を潰せる良い機会だ。康介は久しぶりに文庫本のページを捲る。
数年前に別れた友達に久しぶりに再会したような、そんな懐かしさを覚えた。小説を久しぶりに読んだけど、文章に目を通すと情景がきちんと浮かんで物語の世界に没頭する事が出来た。良かった、久しぶりでもちゃんと面白い。
それが分かって康介は心が暖かくなった。そのまま時間を忘れて文庫本を読み、目的地の駅に到着する旨のアナウンスが流れた時には、まだ読みたかったと名残惜しい気持ちが生まれた。何とか気持ちを切り換えて、電車から降りる。
改札を通過して市役所へ。最近、改築されたらしく康介は初めてやって来た。
受付を済ませて入館証を受け取り、エレベーターで会議室向かう。
綺麗な会議室だったが、康介の知っている顔も何人かいたのでそんなに緊張する事なく、会議に臨めた。
代行として出席している事を会議の最初の挨拶で話していた為、他の出席者も踏み込んだ質問をしてこない。後で担当者に確認をお願い出来ますかと頼まれる程度だ。康介のやる事は、会議内容を会社から持って来たICレコーダーで録音しつつ、配られた会議資料を確認して、時折ノートにメモを残す事。
こうして約一時間半の会議が終わった。
康介は腕時計に視線を落とす。今からだと定時の一時間前には会社に戻れる。チームの二人が帰ってしまう前に帰っておきたい。会議の出席者との軽い雑談を終えて受付に入館証を返してロビーに戻って来る。
するとまるで、この瞬間を待っていたかのように社用携帯が着信した。
嫌な予感がしながらポケットから取り出すと、表示されている名前は野山係長だった。短く息を吐いて、康介は通話ボタンを押す。
「はい。佐々木です」
「佐々木君、野山です。お疲れ様、今って電話平気?」
電話の向こうにいる野山係長の機嫌は悪くなかった。それだけで警戒心が緩む。
「会議はついさっき終わりました。これから会社に戻ります」
「うん。それはいいんだけど、さっき徳永さんから電話がきてさ」
「あ、はい」
徳永の名前を聞いて緩んだ警戒心が再びキュッと締め付けられる。
「午前中に話してた至急案件のやつ。まだ決裁が通らないって聞かれたけど?」
「……えっ?」
現在の時刻から決裁はもうとっくに下りていないとおかしい。康介は冷や汗をかくのを感じた。
「分かりました。関連会社に僕から電話して確認します」
「よろしく。俺、今から打ち合わせが始まるから電話には出れないからね」
「了解しました」
野山係長との電話が終わると、康介はすぐに関連会社に電話を掛けた。担当の遠藤に掛けたのに電話に出たのは、いつもの遠藤ではない女性の声だった。
「はい。MFテクノロジーでございます」
「いつもお世話になっております。私、イースト・システムズの佐々木と申します。遠藤さんはいらっしゃいますか?」
「はい。少々お待ち下さい」
向こうの女性がそう言って保留に切り替わる。康介は市役所のロビーのソファで古い保留音を聴いていた。
遠藤はトイレなんだ、それか別の電話対応中でこの電話に出れなかったんだ。保留を待ちながら、希望的観測を繰り返す。
しかし、彼が必死に抱いた希望は、いとも簡単に絶望へと変わる。
「申し訳ございません。遠藤は本日、お休みを頂いております。代理として私、片倉が対応させていただきます」
「遠藤さん、お休みですか」
「はい。何か遠藤に御用でしょうか?」
「すいません。先日、遠藤さんに急ぎで決裁をお願いしていた案件がありまして、現状をお教えいただけますか?」
「かしこまりました。申請番号をお教えください」
「えっと、」
康介は目を強く閉じて七桁の番号を思い出そうとする。一日に何案件もチェックしている彼にとって、一つ一つの番号をすぐに言うのは難しい。それでも記憶の糸を辿り、奇跡的に番号を思い出した。
「……A1929381、だったと思います」
「A1929381ですね? 少々お待ち下さい」
再び保留音が聴こえた。頼む、決裁が通っていてくれ。ロビーにあるソファで祈りながら、現状の報告を待つ。二分程して保留音が消えた。
「現在、決裁処理中となっており、明日の午前中に決裁が通る予定となっております」
「明日の午前中……」
「はい。こちらで確認出来るステータスではそうなっております」
話が違う。昨日は今日中に決裁が通るって言ったんだ。咄嗟にそう口から出かけたが、元々が至急案件ではないのに無理に決裁を早めてもらうよう頼んだ記憶が脳裏に蘇る。それに今、電話しているのは、代理だ。深い事情は知らない。
ステータスが明日決裁が通るとなっていれば、それが全てだ。せめてものという気持ちで康介は「明日、遠藤さんは出勤されますか?」と尋ねた。
「はい。出社予定です何か御伝言等があれば、私が伺いますが?」
「いえ、伝言は大丈夫です。失礼します」
「はい。失礼致します」
代理の片倉さんとの通話が切れる。康介はソファからすぐに立てず、下を向いて声を漏らす。
「あぁ〜、もう」
昨日は上手く処理出来ていたと思っていたのに、たった一日で暗転してしまった。康介は五分、そのままの姿勢で体を休めてから、そっと顔を上げた。
取り敢えずココにいてもしょうがない。会社に戻らないと。康介はため息と共に重い腰をゆっくりと上げた。
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