「第2章 透明な宇宙を着ている私」(2-5)

(2-5)


 バタン。


 ドアが閉まり、廊下に取り残される咲貴。


 違うよ、お母さん。お母さんが稼いだお金をそういう気持ちで使った事なんて一回もないよ。マクドナルドだって普段食べないから、本当に久しぶりだったから、つい食べたくなったの。


 リビングのドアを見て気持ちが纏まった咲貴は、声には出せず心の中でそう訴える。胸の中で訴えると口に出すのとは違って、しばらくその場でフワフワと留まるから厄介だった。空気と混ざって霧散してくれないのだ。


 咲貴は自分の部屋へと入って行った。

 デスクにはつい数分前までやっていたノートが広がっている。一瞥するがもうやる気は起きず、ベッドへ倒れ込む。うつ伏せになって枕に顔を埋めた。


 次第に呼吸が苦しくなる。堪え切れなくなった咲貴は、グルッと体を反転させて仰向けになった。


「はぁ!」


 体内にあった二酸化炭素に混じって、心の中に残っていた訴えも一緒に口から出てくれた。目の前の空気が少し濁った気がした。肺が綺麗になると、交代で眠気が襲って来る。このまま目を閉じて朝まで眠っていたい欲求に襲われる。


「だめ」


 欲求に抗う言葉を口から出して、咲貴は体を起こした。無事に起こせた自分を褒めてあげてから、ベッドから起きてデスク前のイスに腰を下ろす。


 ノートを閉じてMacBook Airの電源も消した。隣に置いていたiPhoneを手に取って部屋着のポケットへ入れる。


 マグカップに残っていた水を飲み干して部屋を出てから洗面所で歯ブラシを終えてまた戻る。今の一連の行動で微かに回復した体力を使い果たした。


 今日はもうチャットは無理だ。こんな状態ではとても『ビキ』にはなれない。

 絶対にボロが出るだろうし、何よりやりたくない。部屋の電気を消して真っ暗にすると再び、ベッドに横になる。


 iPhoneでアラームだけセットして、目を閉じた。疲れから咲貴の意識はあっという間に沈んで行く。完全に沈み切る直前にチャット前に眠ったのは、随分久しぶりだと思った。


 翌朝、制服に着替えて他の支度も終えた咲貴がリビングへ行くと、スーツ姿の母が朝食を食べていた。その顔はいつもの通りで昨夜の出来事など気にしていない様子だった。


「おはよう」


「おはよう」


 咲貴の挨拶に母は目線だけを彼女に返す。


 咲貴は自分のコーヒーを用意してテーブルへ向かう。テーブルの上には母が用意してくれた朝食が置かれてあった。スクランブルエッグ、サラダ。カリカリに焼かれたベーコンとバターが乗せられたトースト。どれも作り立てで、まだ温かい。


「いただきます」


 料理の前で手を合わせて先は早速トーストを口に運んだ。丁度良く焼き目が付いた香ばしいトーストにバターが溶けて美味しかった。


 既に食べ終えていた母はコーヒーを飲んでいた。


「お母さん、体は大丈夫? 昨日はあまり食べてないんでしょ?」


「大丈夫」


 短い会話が交わされる。世間一般の母娘はもう少し楽しく会話をしているはずだ。だって数年前の我が家がそうだったのだから。今となっては咀嚼音だけが響くような無言の朝食。


 今日は晴れているから良いものの、雨の日には更に気分が重くなる。


「ニュース観てもいい?」


「ええ」


 咲貴の希望に母が許可をする。母はコーヒーを飲みながらiPhoneを触ったり新聞を読んだりしている。その為、天気もニュースも基本的には知っている。


 それは咲貴自身も分かっているけど、この時間に我慢が出来なかった。


「ありがとう」


 母に許可をもらった咲貴はテーブルの所定の位置に置かれているリモコンに手を伸ばして、テレビを点ける。NHKでいつも流れている情報番組がリビングに流れた。無言の朝食風景にテレビの音が入ると、幾らかマシになる。


 二人はしばらく無言だったが「あっ、」と母が何かを思い出したように声を出した。


「昨日の夕食代、冷蔵庫の封筒に入れておいたから」


「うん。分かった」


 梅津家では必要経費として購入したレシートを冷蔵庫にマグネットで貼っておく事で母がその代金を封筒に入れておく仕組みになっている。

 直接手渡しじゃなくてシステム的になっているのが、母らしかった。


「じゃあ私は先に行くから」


 咲貴のお礼を聞いて、母はそう返して立ち上がった。食べた食器とマグカップを載せたトレーを流し台へ置いて、リビングを出て行く。


「行ってらっしゃい」


 リビングのドアが閉まる前に咲貴は何とか声を飛ばした。高校に入ってからいちいち玄関まで見送りに来なくていいと言われているので必然的にこのタイミングでしか言えない。向こうは返事をしないのでちゃんと声が届いているのか、不安だった。


 一人残ったリビングで朝食を食べていると、玄関のドアが閉まった音が聞こえた。ガチャリと施錠する音が聞こえると勝手に「ふぅー」と口から息が出て、肩が下がった。


 父がいた頃、このリビングの朝はもっと話し声が飛び交っていた。家族で朝の情報番組の特集を観て、色々話したり、占いコーナーに一喜一憂していた。今ではまるでそのなものは、最初からなかったかのようになっている。


 番組左上の時間が、そろそろ出発の時間が迫ってきた。朝食を食べ終えた咲貴は、残ったコーヒーを飲み干して空になった食器を載せたトレーを流し台へ持って行った。


 軽く水で流してから流し台に置きテレビの電源と電気を消して、窓の施錠を確かめてからカーテンを閉めてリビングを出た。


 洗面所で最後の身支度を終えて部屋から通学カバンを持って、玄関へ行く。下駄箱横の姿見を軽く見てから、通学カバンを肩に掛けてローファを履く。


「行ってきます」


 振り返って誰もいない家に向けて咲貴はそう言った。当然、誰からも返事はないがそれでも彼女は数秒、その場で待ってから外へ出た。

 いつもと同じ時間に御茶ノ水駅に行き、ホームに降りて同じ列に並び、満員電車に乗った。


 車内で定位置に立った咲貴は、文庫本を読もうと、ブレザーのポケットに手を入れたが、そこで昨夜ホワイトカプセル・サテライトにログインしていなかった事を思い出した。文庫本の代わりにiPhoneを取り出してごく自然にアプリを起動する。

 しかしすぐにログイン出来なかった事を思い出す。


 そうだ、この時間はログイン出来なかった。

 もっとも基本的なルールに気付けなかった。どうやら疲れているらしい。利用時間以外にアプリを起動してもチャットは出来ない。


 DM機能は使えるので、もしかしたら誰かがDMを送ってくれたかも知れないと淡い期待を抱いたが、それもなかった。


 一日、ログインしないぐらいでは何も言われないかと残念に感じながら、咲貴はiPhoneをブレザーのポケットにしまって、いつものように文庫本を取り出した。

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