「第2章 透明な宇宙を着ている私」(2-4)

(2-4)


 葵と別れて咲貴はJRの改札を通った。中央線のホームで電光掲示板に目を向ける。次の電車が来るまであと、八分程時間があった。


 また葵と近い内に行きたいな。咲貴が考えていると、彼女のiPhoneが制服のスカートの中で震えた。まだ手に取っていないのに誰からの着信が分かってしまう。


「はぁ」


 葵との幸せな時間をダメにしてしまうため息を吐いて、iPhoneを取り出す。予想通り、母からの電話だった。


「……もしもし、」


「咲貴? 今どこ?」


 問答無用で用件を言ってくる母。彼女がそうなったのは、離婚してからだ。


「えっと新宿駅のホーム」


「どこかで勉強でもしてた?」


「あ、ううん。ちょっと友達とお話してた」


「……何やってるの?」


 ため息が内包された母の言い方。それを聞いて咲貴は正直に話してしまった事を一瞬で後悔した。


 なんで友達といるなんて言ってしまったんだろう。絶対にバレないんだから、一人で勉強してるって嘘つけば良かった。そうすれば母のため息なんて聞かずに終わったのに。


 きっとさっきまで葵と一緒にいたから、頭の回転が微かに鈍っていたんだ。


 後悔の波に呑み込まれていると母が続ける。


「今朝、帰ったらご飯を炊いておいてって咲貴に頼んだでしょう?」


「ごめん。帰ったらすぐにやるよ」


「もういいの。急だけど今日は家で食べない事になったから」


「そう、なんだ」


 掴めない水蒸気のかたまりが咲貴にぶつかって来る気がした。

 

 言い方からして急な飲み会があったのだろうか。

 家では滅多にお酒を飲まない母でも会社の人達と飲み会があれば、参加せざるを得ない。本人は嫌々らしくそういう日は帰ってくると機嫌が悪い。

 

「だからまだ炊いていないなら、丁度良かった。外で食べるかお弁当でも買って。お金は後で返すから」


「うん」


 母の提案に咲貴は余計な事は言わずそう返す。


「出来るだけ遅くならないようにするから」


「大丈夫だよ。気にせず楽しんで」


「……それじゃあ」


 母との通話が切れる。iPhoneのディスプレイには咲貴の耳の油が付いて、その向こうには通話時間が表示されている。通話時間は三分も経ってなかった。

 たったそれだけなのにどっと疲れた。


 外で夕食を食べるなら咲貴がと話して遅くなっても問題ない。

 それなのにあんな言い方をされるなんて意味が分からなかった。でも当然、向こうに追及する事は出来ない。確かめようのない気持ちだけが咲貴の中で大きくなる。


 電車到着まで残り一分。ホームには列が形成されて咲貴の背後にも並んでいる。

 彼女は赤信号を無視する気持ちで、その列から抜けた。上がって来たエスカレーターに再度乗って、改札へ向かう。


 改札を抜けてまた新宿駅構内へ。

 ブレザーのポケットからカナル型のイヤホンを取り出して耳に入れる。ミュージックアプリを開いて、環境音と名付けた再生リストから、【雨】を選択して再生した。


 両耳から雨音が聞こえて、咲貴の周りは雨になった。雨を纏った状態で都庁方面に歩く。途中にあったブックファーストへ入った。本だけじゃなくて、文房具も売っているこのお店は、この時間は学校帰りの高校生の姿をよく見かける。


 咲貴はブレザーのポケットに両手を入れて視線を下げて店内を歩いた。彼女は文房具コーナーで立ち止まり、沢山のペンが並んでいるコーナーにやってきた。下げていた顔をゆっくりと上げる。


 四色ボールペンや色違いのシャーペンが数多く並ぶ中、一本のボールペンを手に取った。白の四色ボールペンだった。丁度良さそうな太さで手に馴染む。

 それをしばらく眺めていた。その間もずっと咲貴の周りでは雨が降り続けている。お蔭で彼女の耳には雑音は入って来ない。店内のBGM、他の客の話し声。その他全てをシャットアウトして集中する事が出来た。


 ボールペンの使い心地を確かめるように試し書きの紙に適当に線を引く。まるでいかにもこのペン買おうか迷っていますといった動作だった――。


 ブックファーストを出た咲貴は早歩きできた道を戻り、改札を抜ける。途中、一度も振り返る事なく、ホームへと続くエスカレーターに乗った。


「……っっ、ぷはぁ〜」


 いつの間にか息を止めていたらしく、口から勝手に息が漏れた。ホームに戻ると咲貴は、ポケットに入れているiPhoneのサイドボタンを押して音量を小さくする。


 ボタンに反応して咲貴の周りの雨音が小さくなっていく。


 戻ってきた日常に安堵して、胸の奥に溜まっていたモヤモヤとした空気を吐き出した。電光掲示板に視線を向けると、次の電車まで二分だった。


 目の前にある適当な列に咲貴は並んだ。いつもの自動販売機付近の列に並ばなかったのは、わざとである。


 やってきた中央線の電車に乗りドアの横に立つ。早くドアが閉まってくれと祈って視線をホームに向ける。ドアが閉まり、ゆっくりと電車が発車した。


 流れる景色に視線を向けて新宿から離れていく事心から開放された気分になった。つり革を掴む程の力は今の彼女には残っていなかったので、発車してからもドアに持たれ掛け続けていた。


 イヤホンをしたままだけど、既に【雨】は消していたので何も聴こえない。ポケットからiPhoneを取り出してミュージックアプリを開き、いつもの音楽を聴く。


 安心する音楽に耳を傾けて咲貴の思考は徐々に回復していった。四ツ谷駅を越えると夕食は何を食べようかと考えるまでになった。


 パッと頭に浮かぶのはマクドナルドを始めとするファーストフード。お惣菜が充実しているスーパー。あとは近所のお弁当屋さん。その中からどれを選ぶか。

 咲貴が考えている内に電車は御茶ノ水駅に到着した。


 御茶ノ水駅の改札を抜けて、咲貴はマクドナルドを買って帰る事に決めた。少しマンションには遠回りになるけど、良い運動だと思えばいい。


 神保町まで歩いて、マクドナルドでチーズバーガーセットを注文してテイクアウトする。騒がしい店内でレシートに書かれた番号が呼ばれるのを待っていた。その間、生活用品で何か買い足しはないかと考える。シャンプー。コンディショナー類は、詰め替えの予備がまだある。洗剤系も大丈夫。


 頭の中でチェックリストを作り一つずつ消化していく。


 その中で固形石鹸のストックがない事を思い出した。帰りに買って帰ろうと決める。


 出来上がったチーズバーガーセットを受け取り、その温かさを感じつつ、家に帰る途中にあるドラッグストアに寄ってで固形石鹸を購入した。

 マクドナルドのレシートと合わせて、財布にしまっておく。固形石鹸は通学カバンに入れて、マンションまで歩いた。


「ただいま」


 マンションの鍵を開けていつものようにただいまの挨拶。そして洗面所で手洗い・うがいを済ませて(買って来た固形石鹸を洗面所の棚に入れておく)リビングへ。


 リビングのテーブルに置いたマクドナルドの袋を開けて買った物を取り出す。買ってから少し時間が経ったけど、まだ充分温かった。


 チーズバーガーの包装を開けると、リビングにジャンクフードの匂いが充満した。母はジャンクフードを好まないので、いる時には食べられない。


「いただきます」


 そう言ってからチーズバーガーにかぶり付いた。父が出て行ってから食べる機会がめっきりと減ったジャンクフードの味が口内に広がる。


 ハンバーガーとポテトを食べ終わると、ちょっとだけボーッとした。

 晩御飯がないと言う事は、母が帰って来るのは、二十一時以降のはず。時間には余裕がある。食べ終えた物を袋に入れず、しばらくテーブルに放置していた。


「ごちそうさまでした」


 iPhoneを触ったりテレビを観たりして一人の時間を満喫してから、咲貴はようやくマクドナルドの食べた袋を片付け始めた。


 窓を開けて、リビングの換気を済ませる。ゴミ箱の奥に押し込めたマクドナルドの袋。そして換気されたリビング。


 これで大丈夫。安心した咲貴は自分の部屋に戻り、制服を脱いでシャワーを浴びた。部屋着に着替えてアプリまでの時間を勉強に費やすつもりだった。

 すぐに今日の分の勉強を始めないと、スターバックスで葵と話した時間分を取り戻す必要があった。


 水を入れたマグカップに口を付けて、集中する為のスイッチを入れる。iPhoneのタイマーを活用しつつ黙々と勉強をしていると、玄関からガチャと鍵が開く音が聞こえた。母が帰って来た。その音に反応して壁掛け時計を見る。


 時刻は二十二時時半を超えていた。予想より遅い。部屋を出て母を出迎える。


「おかえりなさい、遅かったね」


 咲貴が出迎えた母はジロリとこちらを睨んだ。その目で瞬時に機嫌が悪いと察する。下手な事を言って、相手を刺激しないようにと慎重になった。


「ええ」


 パンプスを脱いでため息を吐く母。そして、自身のスリッパに履き替える。


「今日は急な仕事が入って遅くなったの」


「……そうだったんだ。お疲れ様」


 夕食を食べなかったのは誰かと外食するからではなく、仕事が忙しいからなのを咲貴は把握した。


「お母さんは夕食、何を食べたの?」


 仕事の話は続けない方が良いと判断して、咲貴は話題を誘導する。しかし、その判断は悪手だった。


「食べてない」


「え?」


「会社近くのコンビニでカロリーメイトとポカリスエット買って来た」


 母の仕事用の黒のトートバッグの中に半透明のコンビニ袋が見えた。


「ダメだよ。ちゃんと食べないと」


「いいの。放っておいてっ、」


 母の声は余裕がないのかいつもより少し大きかった。それでも何か咲貴が言わないと口を開くが、それより先に母から質問された。


「咲貴は何を食べたの?」


「……マクドナルド」


 夕食の選択を誤った数時間前の自分を呪った。


 こんな事になるならマクドナルドなんか食べなかった。駅前のスーパーでお惣菜を買うか冷蔵庫の食材で何かを作った。けど、食べてしまったのはどうしようもない。咄嗟の嘘で騙し切れる程、母は甘くない。


 咲貴の告白に母は、またため息を吐く。電話越しのものと似ているが決定的に違うのは、悪意が向けられているという事。電話の時は仕事に対して、今は咲貴に向かっているのだと肌で感じた。


「いいわね、咲貴は。私の稼いだお金で好きな物を好きなだけ食べられて」


「……っ、」


 一切の容赦ない言葉のナイフが咲貴に切りかかる。何も言い返せずに固まっていると、母は小さく舌打ちをして彼女の横を通り、リビングへと入っていった。

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