「第2章 透明な宇宙を着ている私」(2-6)

(2-6)


 ――放課後。


 学校生活が終わり、帰り支度を始めていると、葵がいつものようにやって来た。


「咲貴ちゃん、帰ろ?」


「うん、帰ろうか」


 またいつものように二人揃って学校を出て、最寄り駅まで歩く。だがその途中で咲貴は気付いた。葵の口数が極端に少ないという事に。すれ違う他の子に「さよならー」と挨拶するまでは同じだったので、校内では気付かなかった。


 校門を出てからは歩くスピードまで低速になっている。

 何かあったのだろうか? 体調が悪い? それとも今日の学校生活で何かがあったのか? 考えられる原因が幾つか浮かんで来るが、咲貴が知る限りでは教室の葵におかしなところは無かった。


 二人の足は赤信号前の交差点で止まった。同じ通学路が少し状況が違うだけで別の道に見えてくる。


 そう考えていると、葵が意を決したようにゆっくりと口を開いた。


「あの、ね」


「うん?」


 道路を走る車の走行音の方が大きくて葵の声を聞き逃しそうになった。


「昨日、夜に裕子からLINEがあったんだけど……」


「坂井さん?」


 坂井 裕子。クラスで声が大きく目立つタイプの子。葵も会話する事はあっても同じカテゴリにはいない。咲貴に至っては会話をした事がない。


 ここで坂井の名前が出て来るとは思っていなかった。


 咲貴が不思議に思っていると、このタイミングで信号が青になった。他に並んでいる人の足が動いて、つられて咲貴の足も動こうとする。だが、隣の葵は止まったままだったので、一歩だけ前に出して止まった。


「葵ちゃん?」


 首を傾げて葵に声を掛ける咲貴。




「咲貴が新宿のブックファーストでボールペンを万引きしてたって」




 時間が止まった気がした。


 葵の口から発せられた言葉が空気を伝播して、咲貴の耳に届く。本来、それを脳で処理をするのに、その処理が出来なかった。次第に呼吸が苦しくなってくる。


 昨日、葵と別れて母から電話があった時だ。ブックファーストで知った顔がいないか確認したはずなのに、坂井さんは私服だった? 

 脳が勝手に見つけられなかった理由を分析し始める。


そんな事はただの現実逃避である事を本人が一番、分かっていた。


 二人がその場で固まっていると、交差点の青信号が点滅して赤になった。それが咲貴には、信号に見限られた気になった。


 一旦、区切られた車の走行音が再び盛んに主張をしてくる。それが二人の間の壁となってくれた。葵が瞳を真っ直ぐにこちらに向けて、咲貴の返答を待っていた。絡まった思考のまま、彼女は口を開いてしまう。


「それって……、」


 絡まった思考では上手く返せなかった。第一声が否定じゃなかった事で真実なのだと葵が理解してしまった。彼女は眉間にシワを寄せる。


「本当なの? 万引きって? 昨日って私とスタバで別れてからでしょ、夕食の手伝いって言ってたのも嘘なの?  昨日だけじゃなくて前からもしてたの? だから最近、私とスタバに行くのを嫌がってたの?」


 水道の壊れた蛇口のように葵から疑問が溢れ出て来る。一体いつから彼女は溜め込んでいたのか。


「えっと、その……」


 濁流のように疑問を浴びせられて、咲貴は上手く返せない。


 言い訳も嘘も何も言えない。頭の中で文章を上手く組み立てられなかった。


 それは当然だった、よりによって葵に。咲貴がこの世で一番知られたくない人に知られてしまったのだ。その恐怖と苦痛が彼女の脳を圧迫していた。


 そんな事は葵には伝わらない。彼女の目から見ればこちらがたじろいでいるだけに見える。時にそれは肯定よりも否定よりも残酷だった。


「裕子は学校に言おうか迷ってるって」


「あっ、」


 葵の声に反応して勝手に声が口から漏れる。そうか、普通はそうなるのか。咲貴のどこか遠くに行っている思考が感想を抱く。学校からブックファーストに話が行けば、当然監視カメラのチェックが始まるだろう。あれがどこまでの精度なのか知らないけど、不審な行動をしている時点で逃れようがない。


「でも見間違いの可能性があるから、葵から聞いてほしいって頼まれたの」


「そう」


 葵の話を聞いて瞬時に嘘だと見抜いた。見間違いなんてあり得ない。坂井がそんな事を考えるタイプには見えない。葵の口から見間違いだったと伝えられても動くに決まっている。


 教室での彼女の大きな笑い声を思い出して癇に障る。


 再び信号が青になり咲貴は大きく深呼吸をした。周りにいた他の人達は立ち止まっている二人を追い抜いて、交差点を渡って行った。


「ふぅ〜」


 肺に新鮮な空気を取り込んで、ようやく正常に動くようになった思考を元に咲貴は声を出す。


「葵ちゃん、聞いて」


「うん」


 出した自分でも驚くくらい冷静な声だった。葵の瞳がこちらを捉え続ける。その瞳が訴えるのは否定してほしい。それだけだった。


「坂井さんが言っているのなら、言い訳しても無理だと思うよ。ブックファーストに行ったのは、本当だから」


 声を出す事がこれ程、辛い作業とは知らなかった。冷静な思考とそうじゃない思考が互いを食い合っているからだ。


 咲貴の説明を聞いて葵は、ハッとした顔を見せてから下を向いた。彼女の瞳から逃れた事を一瞬、安堵したが顔を上げた表情を見て心が痛くなった。


「咲貴ちゃんが、そんな人とは知らなかった」


「うん、ごめん」


 何に対しての謝罪なのか考えておらず、咲貴は反射的に謝った。


「私に謝られても……」


「そうだよね」


 曖昧な返事をしてから数秒、たった数秒の間を置いて葵が口を開く。


「もう、話しかけてこないで」


 車の排気ガスに乗って咲貴の耳に届く葵の言葉。

 葵は返答を聞く前にまだ青だった交差点を走って渡り切った。走り去った彼女を追い掛けようと、体が動いたが話しかけてこないでという言葉が鎖となって体に巻き付いて動けなかった。


 信号がまた赤になった。目の前を横切る車の向こうに葵の姿が遠くなっていく。どんどん遠ざかる彼女の姿。残った咲貴は、離れていく葵の後ろ姿を見送った。


 信号が青になり咲貴の体はやっと動いた。たかが、信号一回分走れば余裕で追い付く。でも、そんな気は起きない。彼女は出来るだけゆっくり歩いて、葵との距離を開けて最寄り駅に到着した。


 ホームに到着すると、電車が発車した直後だったようで、誰もいなかった。思わず葵がいなくてホッとする。電光掲示板では次の電車まであと、六分だった。


 文庫本もiPhoneも何もする気が起きない。


 咲貴は視線を下にして、電車が来るまで堪え続けていた。


 六分が経過して電車がやっと到着した。咲貴は力なく電車に乗る。偶然、視界に空いているシートがあったので、腰を下ろす。暖かいシートは直前まで誰かが座っていたようで、彼女の体を温めてくれた。


 新宿まで眠ろうと目をつむったけれど、全く眠気は訪れない。しかも視界を閉じると、余計な事ばかり考えてしまう。


 今頃、葵は坂井に連絡したのか。彼女から連絡を受けた坂井はきっと、嬉々として学校に報告するに違いない。それは明日ではなく、今かも知れない。

 そうなったら、自分が家に帰る前に母に連絡が行くんだろうか?


 母には何て言われるだろう。あの人の事だから、理由とかそういうのは一切、聞いてこない。過程よりも結果を何よりも重視する人だから。


 もしかしたら今が最後の猶予なのかも知れない。新宿に着いたらすぐに母から電話が掛かってきて、事態が動くのかも知れない。

 学校は停学? いや、退学になるのか、嫌だなぁ。負の考えがどんどん加速していく中で咲貴を乗せた電車は、新宿に到達した。



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