「第2章 透明な宇宙を着ている私」(3-1)

(3-1)


 新宿に到着した咲貴は改札を抜けると、JRの乗り換えへと続く改札ではなく、先日と同様にブックファーストへと向かった。そこに確固たる意志があった訳ではない。葵も坂井も関係なかった。ただ単純に家に帰るのが嫌なだけだった。


 ブレザーのポケットからカナル型のイヤホンを取り出して、iPhoneに挿す。

 ミュージックアプリを起動して【雨】の環境音を流した。咲貴の両耳から雨が流れた。今、この雨の音が一番心を落ち着かせてくれた。


 改札を抜けてブックファーストへ足を進める。今まで二日連続で来た事はなかったが、昨日よりも警戒をしなかった。

 店内に到着すると、下を向いて文房具コーナーへ。沢山のペンが並んでいる中、あの白い四色ボールペンが目に入った。


 まるで誰かに操られているようにそれを手に取った咲貴は器用にペンを右手の袖に入れる。一歩ずつ、外に向けて足を動かす。

 ずっと雨が降っていたから誰の声も聞こえない。

 心が底へと沈んでいく感じがあった。


 自動ドアまで辿り着いた咲貴は、昨日と変わらない一歩を踏み出す。


 そう、足を宙に浮かして外のコンクリートに置いた瞬間だった。


 ガシッ! と、とても強い近い力で咲貴の右腕が後方から掴まれたのだ。


「……っ!!」


 掴まれた衝撃が全身を走る。おそるおそる咲貴が振り返ると、そこには一人の男性がいた。スーツも着ていないし、店員の格好もしていない。見た感じ、大学生くらいだろうか、そこまで歳が離れている印象はなかった。


 咲貴の右腕を掴んだ彼の目は、何もかも分かっていると言いたげだった。大方、ペンを袖に入れる場面を見たのだろう。その視線は、咲貴にとって不快だった。

 何も分かっていない癖に。

 反抗的な目で彼を睨んだ。


 湧き上がった感情に任せて、掴まれた右腕を強引に振り解いた。


「違いますからっ、」


 何もかも省略して咲貴の口から出たのは、否定だった。その一言に彼女の心境の全てが内包されていた。手を振り解かれた彼はキョトンとした顔でこちらを見てから、自身の耳をトントンと叩いた。


 最初、何なのか分からなかったが、咲貴のイヤホンを取るようにという意味だと分かると、彼女は両方のイヤホンを取った。イヤホンを取ると、包囲していた雨が止んだ。


 人の足音、話し声、店のBGM、風の音まで普段なら気にしないのに今日はやけに耳に響く。


「違うのは分かってる」


 話が通じる状況になって、彼が発した第一声がそれだった。


「……えっ?」


 何を分かっていると言うのだ。困惑している咲貴に男性は続ける。


「君が万引きをするつもりがない事。昨日だって店から足を一歩だけ出してすぐに戻してたじゃないか」


「……っ!?」


 咲貴の目の前にいる彼がさも当たり前のように話す。昨日の彼女の行動。葵にも言っていない自分だけしか知らないと思っていた真実。まさか誰かに当てられるとは夢にも思っていなかったので、その場で固まってしまう。


「あー、うん」


 固まってしまった咲貴に申し訳なさそうに頬を掻きながら、彼は続ける。


「君なりに何か事情があって、そのギリギリで踏み止まっているのは何となく察しているつもりだけど、もしかして違った?」


 咲貴はもう涙を抑える事が出来なかった。


 自分が今、一番欲しい言葉を母でも葵でもないこの人に言われるなんて。


 心の奥に沈め込んで、決して誰にも見せないようにしていた気持ちをこの人は汲み取ってくれている。涙は止まる事なく溢れて来る。それを手で受け止めず、頬をずっと流れていた。


「わっ、ちょっとちょっと!」


 流れ出る咲貴の涙に目の前にいる彼は動揺する。事情を知らない他の客が二人の横を通る時にチラリと視線を向けていた。


「と、取り敢えず場所を変えよう!」


「……はい」


 慌てる彼に少しだけ余裕が生まれた咲貴は頷いて従う。彼女が頷いたのでホッとした様子の彼は、手を伸ばした。


「ボールペン返して来るよ。お店を出た所で待っていて」


「ありがとう、ございます」


 まだ袖の中にいたボールペンを彼に手渡す。咲貴の体温を吸収した白い四色ボールペンは温かった。受け取った彼が店内へと戻って行く。


 その背中を少しだけ見てから、言われた通りに咲貴はブックファーストの出口の横に立って待つ。涙はいつの間にか止まっていて、心も落ち着いていた。

 ややあってから、彼がお店から出て来た。


「ゴメンね、お待たせ」


「いえ。ありがとうございます」


「うん。えっと、どこに行こうか。スターバックスとかにする?」


 新宿でスターバックスと言われると、瞬間的に葵との楽しい思い出が咲貴の頭に浮かだ。

 新宿には何店舗もあるから、同じ店舗に行かなければいいのだが、それでも店内の雰囲気で映像が浮かんでしまう。


「ちょっと、スターバックスは行きたくないです」


「そう? 了解。じゃあ別の喫茶店に行こう」


 咲貴の希望を汲み取った彼は違う喫茶店を提案してくれた。それに彼女は頷いて同意する。

 二人並んで歩いて地上に出た。今更になるが目の前の彼に対して、咲貴は警戒をしてしまう。


 決定的な場面を見られてしまったけど、変な事をされたりしないだろうか。別の喫茶店とは何処だろうか? まだ走ればホームに逃げられる。


 だけど、彼に救ってもらったのは紛れもない事実。


 悩んだ末に咲貴はブレザーのポケットに入れていたiPhoneを取り出して両手で持つ事にした。地上に出た二人はそれから信号を渡り、繁華街を歩く。

 完全な横並びではなく、斜めに並んだ形になって足を進めた。

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