「第2章 透明な宇宙を着ている私」(3-2)

(3-2)


 ドコモタワーが見える新宿の住宅街までやってきて、その一角に喫茶店があった。赤い窓枠が付いたレンガ造りの外観に緑色のドアの喫茶店。

 スターバックスやドトールコーヒーと違って、チェーン店ではない。


 ココに来るまで一度も話さなかった彼が初めて足を止めて咲貴の方を向いた。


「えっと、この喫茶店でいい? 何回か来ていけど話しやすい雰囲気だと思うから」


「あ、はい。大丈夫です」


 少なくとも怪しい雰囲気の店ではない。そう思った咲貴は了承した。両手で持っていたiPhoneをブレザーのポケットにしまった。


「良かった、じゃあ行こうか」


 彼が緑色のドアを開ける。カランコロン、とドア上部に取り付けられたカウベルの音が鳴り響いて、二人を出迎えた。


 店内に入ると、暖色の照明とコーヒーの良い香りが咲貴を包んだ。すぐに落ち着く感じだと分かった。カウンターを拭いていたメガネを掛けた女性店員が入口に立つ二人を見つける。


「いらっしゃいませ。あっ、成瀬くん」


「こんにちは、山科さん」


 こちらに駆け寄って来た女性店員は、彼の顔見知りらしく笑顔で話しかける。

 成瀬という名前なのか、二人の会話から彼の苗字を知った。


「久しぶりだね、今日は二人で?」


「はい。奥のソファ席空いていますか?」


「空いてるよ〜」


 女性店員に許可を得て、頭を下げた成瀬は奥へと歩いていく。

 咲貴は彼の後ろを付いて行った。奥のソファ席は、外から見えていた赤い窓枠があるソファ席だった。お互いに対面に座り、それぞれの荷物を横に置く。


「さて、取り敢えず注文しちゃおうか」


 座ると成瀬は立て掛けられたメニュー表を取り、二人が見えるように広げた。いつもスターバックスに行っていた咲貴は、こういった喫茶店のメニューを見るのは、久しぶりだった。それこそまだ父がいた頃まで遡る。


「俺はいつものブレンドにしようかな」


「あ、私もそれでお願いします」


 普段、外ではコーヒーを飲まないようにしていた咲貴だったが、この店のコーヒーはどんな味がするのか。店内の漂うコーヒーの香りから楽しみだった。


「うん、了解」


 彼が咲貴の希望を聞いた。少ししてから、銀のトレーに二人分のお冷とおしぼりを載せた山科という女性店員に「ブレンド二つお願いします」と注文した。


「はい、かしこまりました」


 笑顔で注文を受け取った女性店員はそのままカウンターの方へと戻って行った。注文したコーヒーが来るまで二人の間に僅かな沈黙が生まれる。


 咲貴はその沈黙が嫌ではなかった。まるで葵といる時のような安心感がある。

 初対面の、それも歳上の男性なのにどうしてだろうか。自分自身も理解出来ず不思議に思っていた。

 その後、山科が銀のトレーにブレンドコーヒーを二人分乗せてやって来た。


「お待たせ致しました」


 テキパキと二人の前にソーサーに乗ったブレンドコーヒーとフレッシュを並べて、「ごゆっくりどうぞ」と頭を下げた。


 彼はテーブル中央に置かれたフレッシュを少しだけ注いだ。


「ミルクいる?」


「あ、大丈夫です」


 初めてのコーヒーなので、まずはブラックで飲みたい。


 お互いに注文したコーヒーに口を付けた。咲貴の口内に淹れたてのコーヒーの味が広がった。美味しかった、家で飲むコーヒーとはまた違った。


「美味しい」


 咲貴がそう感想を呟くと、彼は笑顔で「良かった。ここのコーヒー美味しいんだ」と同意した。もう一口、彼女が飲んでから「さて、」と彼が話を始めた。


「最初に自己紹介をしようか。成瀬 日向です。大学生をしています」


「梅津 咲貴です。高校生です」


「よし。自己紹介も終わったところで教えてもらってもいい? どうしてあんな真似をしたのか」


「……はい」


 咲貴はゆっくりの経緯を説明した。母の事や学校の事。彼女が抱えていた現状の全てを。何の関係がない彼に話すと、溜め込んでいた事を話すのに抵抗がなかった。日向は彼女の話を黙って聞いて、時折相槌を入れていた。


 言葉を選んで慎重に自分のペースで話していたので、話を終える頃には大分時間が経過していた。


「――以上です」


 一連の話はこれで終わりだと言いつつも何処かに話してない箇所はなかったかと咲貴の思考は常に動いていた。


「なるほど。梅津さんの事情は分かった。色々と大変だったね」


「はい」


 大変だったねと言われただけで、流れ終わったはずの涙がまた湧き上がる。テーブルに備え付けられている紙ナプキンを手に取り、涙を染み込ませた。


「あっ、ゴメン! 大丈夫?」


 咲貴の涙に日向が焦った様子で身を乗り出す。


 “違うんです……っ! 成瀬さんは何も悪くないんです……っ!”

 

 そう伝えたかったけど、上手く声が出せなかった。出来るのは首を左右に振って問題ないと返事をする事だけだった。


「大丈夫なら落ち着くまで泣いてていいよ。待ってるから」


 日向の優しい言葉に、咲貴は頷いた。言う通りに落ち着くまで涙を流した。


「ありがとうございます。落ち着きました」


「落ち着いたのなら、何より」


 日向は安心したようにホッと肩を下ろす。


「それで梅津さんは今後、どうしたい? 涙が出尽くしたのなら今の頭はスッキリしているから、最初に純粋な願いが浮かんで来るはずだ」


 確かにいつもより頭がスッキリしている。疲れて思考が働かないのとは違う。不純物がデトックスされた感覚だった。

 クリアになった思考で咲貴は、今後どうしたいかを考えた。


 目は自然と閉じていた。視界がなくなって更に考えが鋭敏になる。


 やがて、咲貴はゆっくりと目を開いた。


「私は、変わりたいです」


「うん、そうか。じゃあ変わっていこう。一つずつ丁寧に変えていこう」


「はい」


 変わりたいという咲貴の願いを聞いて、日向はそっと背中を押してくれる。

 先程も思ったが、彼とは初対面なのに何回も話しているみたいで、話しやすかった。具体的にはどうしていけば良いか。遠くにある目標に向かって続いている道順を一つ一つ丁寧に説明していく。


 葵への連絡。坂井への対処。

 一人で考えていると臆病になって動かなかった思考は、彼といる事で充分に動いてくれた。どう話せば、葵に伝わるのか、二人で考えて、話す内容をiPhoneのメモアプリに入力していく。

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