「第2章 透明な宇宙を着ている私」(3-3)

(3-3)


 葵に話したい事は固まって、今度は坂井の対処を考えようとしていた時、咲貴の手に持っていたiPhoneが電話を着信した。ディスプレイに表示されている名前は、母の名前だった。反射的にその場で電話に出る。


「咲貴? 今、どこにいるの?」


「えっと、新宿の喫茶店。勉強してた」


「勉強?」


 学校の勉強とは違うけど、間違ってはいない。咄嗟の言い分にしては上出来だ。

 答えながらも咲貴はそう思った。


「うん。ごめんなさい。連絡もせずに」


「今何時か分かってる? 勉強なら家でも出来るでしょう?」


 母に言われて、咲貴は腕時計を見る。時間はもう二十時半を過ぎていた。そうか、こんなに時間が経過していたのかと現状を再認識する。


「ごめん。勉強に夢中になってた」


 咲貴が謝罪するとiPhoneの向こうから、母のため息が返って来た。


「とにかく早く帰ってきなさい」


「あっ、えっと……、」


「なに?」


 咲貴がすぐに答えなかったので母が何かと次を尋ねてくる。


 気後れしないように一拍置いてから、咲貴が尋ねた。


「夕食は?」


「もう作ってる」


 母の口ぶりはいつも通りだった。今日は家で食べるようで安心した。二日連続で夕食を取らないなんて事にはならないようだ。咲貴が安堵していると、母から「聞いてるの?」と返事が促される。


「あ、ごめん。うん、すぐに帰ります」


「早く帰って来なさいね。そうしないと洗い物が終わらないから」


 最後にそう言われて母との通話が終わった。あれはもう最後に何か嫌味を言わないといけない病気みたいなものだ。


「お母さん? 大丈夫?」


「はい。早く帰ってきなさいって言われました」


「そっか。もう二十時過ぎてるもんね。門限を過ぎちゃってたか」


 門限なんてないので日向が気にする必要はない。心配する彼に咲貴は首を振った。


「大丈夫です。門限はウチにはないんで」


「あ、そうなんだ」


「はい」


 変な気遣いをしていると思われないように咲貴は、しっかりと頷く。梅津家には門限はない。門限と呼ばれるものがあったのは、まだ両親が離婚する前、高原 咲貴だった時だ。


 離婚してから母がお金を稼がないといけなくて、そこまで気が回らなくなったのである。別に門限以外にもなくなったものは幾つかある。

 苗字が梅津になってから、そういう変化からずっと目を背けてきた。


 その積み重ねが今日の結果を生んだと言っても過言ではない。勿論、悪いのは自分だけどそれも含めて、決着を付けないといけない。


「私、もう帰ります。成瀬さん、今日は本当にありがとうございました」


「そうだね、帰ろうか」


 咲貴は残っていたカップのコーヒーを飲み干して帰り支度を始める。日向も同じく帰り支度をして合わせてくれた。


 二人してソファから立ち上がり、伝票を持ってレジへ向かう。

 自分の飲んだ分は払うと言おうとしたのだが、先に彼が払ってしまった。「ありがとうございました」と女性店員に言われてから、緑色のドアを開けるまでに咲貴は財布を出す。


「奢らせてよ。梅津さんの事情を教えてもらった分の代金って事で。まあ、ちょっと言い方は変だけど、そんな感じで」


「それって、」


 事情を教えてもらった代金と言うのは、日向本人が話している通り、変だ。むしろこちらがお金を払うべきなのに。と思ってしまう。そして同時にそんな言い方をした日向が面白くて、つい笑ってしまった。


「あっ、笑ったな」


「すいません。だって面白くて」


 本当に久しぶりにちゃんと笑えた気がした。ここで笑ってしまった以上、もうお金は払えないか。咲貴は諦めて財布をしまった。


「奢っていただきありがとうございました」


「いえいえ。こちらこそ、奢らせていただいて」


 変な事を言われてまた笑いそうになるが、今度は堪えた。二人して喫茶店を出る。店名の由来になっている緑色のドアを開けると、上部にあるカウベルがカランコロンと優しい音を立てた。


 二人は新宿駅まで歩く。少し駅まで距離があったけど、日向と一緒に歩いたので怖くなかった。駅に到着してJRの改札を通る。彼も中央線だと分かったので、ホームも同じだった。


 ホームに上がるとすぐに電車が到着するアナウンスが流れたので、目の前の列に並び、到着した電車に乗った。


 空いているシートに並んで腰を下ろす。そう言えば、学校から帰りでココまで誰かと一緒なのは初めだと電車が発射した時に思った。


「席が空いててラッキーだったね」


「そうですね、」


 見回せば車両のどこにも空きはないようで、立っている乗客の姿は多かった。


「成瀬さん、さっきも言いましたけど、今日は助けていただきありがとうございました」


「ううん。俺はそんな大した事はしてないよ。だけど、もう二度とやらないでね」


「はい。もう二度としません」


 咲貴はあの行為に快楽を求めていた訳ではない。逃避から来る行動だった。

 故に一度、日向に救ってもらった事で逃避は終了している。それに他ならぬ彼からの信頼を裏切るわけにはいかない。


 “もう二度としません”という咲貴の言葉を聞いて、日向は「良かった」と笑顔で頷いた。


「毎回、俺も助けられる訳じゃないからさ。そうしてくれると嬉しいよ」


「私としては、毎回成瀬さんに助けてほしいところですけど」


「こらこら」


「あははっ、」


 こういう話し方は自分にしては珍しく、葵といる時だってしない。そう考えると同時に別れが近付いている事を思い出した。彼女が御茶ノ水まで日向は、神田で降りるらしい。一駅差だったのも驚いた。


 いくら距離が近くても大勢の人が暮らす東京で、偶然会える確率はとても低い。

 そう感じると咲貴の気持ちが動き始める。一度、湧いたその気持ちは、彼女の中で勝手に育ち、日向を逃してはいけないという気持ちへと成長していく。

 それに従って咲貴は、日向に向かって口を開いた。


「あの、」


「ん?」


「良かったら連絡先、交換していただきませんか?」


「え? ああ、ううん。それは構わないけど」


 連絡先を交換しようと言われるのは日向の中で予想外だったようで、彼は少し目を見開きながらも同意した。互いのiPhoneを取り出して連絡先を交換する。

 成瀬 日向という名前が咲貴のiPhoneに表示された。


 親戚以外の歳上の男性の名前が初めて登録された。それを口には出さず彼に「ありがとうございました」と礼を言った。


「帰ったらお母さんと話をします。その後、葵にも」


「うん」


「少しずつですけど、頑張って私と私の周りを変えていきます」


「頑張って」


 咲貴の決意を日向は優しく受け止めて応援してくれた。


「もし、途中で苦しくなったら連絡してもいいですか?」


「勿論。って言いたいけど、そんなに出来る事は多くないからね。期待し過ぎには注意して」


「えっ、」


 日向の言葉を聞いて、今度は咲貴の目が見開いた。そして声に出して笑う。


「あっ、笑ったな」


「ごめんなさい。まさか、そんな事を言われるとは思わなかったから」


 今日だけで咲貴の人生を変えてしまったのに、この人はその自覚がないんだ。謙虚なのか自信がないのか。あれ程、寄り添ってくれたに。


「大丈夫ですよ。自信を持って下さい。成瀬さんは充分凄いですし。これからも沢山期待します」


「えー。そう?」


 素直に褒められた日向は恥ずかしそうにそう答えた。そんな彼に笑顔で頷く。


「はい」


 ハッキリとそう言った時、二人を乗せた電車に御茶ノ水駅に到着するアナウンスが流れた。


「あ、もう着いちゃいますね」


「本当だね。早い早い」


 アナウンスが流れた事で車内の乗客達が続々とドア付近に集まる。そろそろ自分も立ち上がった方がいいだろう。咲貴はゆっくりと立ち上がった。学校最寄り駅から一人で新宿まで行った時と違って、体が軽かった。


 ココから先は自分で頑張る。咲貴は決意表明を心の中でしてから、小さく深呼吸をした。すると、彼女の少し後ろから日向の声がする。


「頑張れ」


 心強いその声援に振り返って、笑顔で「はい、頑張ります」と返事をした。


 電車は御茶ノ水駅に到着して、大勢の乗客が乗り降りをする。咲貴も同じくホームへと降りた。


 いつもの知っているホーム。改札へ上がる階段へ行くか、総武線を待つか列が分かれる。咲貴は改札へ上がる階段へ向かおうと体を向ける。そして乗っていた電車の方を向いた。すると日向も振り返って、目が合い手を振ってくれた。


 照れつつも手を振り返して、電車を見送った。


 動き始めた電車を最後まで見続けた咲貴は、階段を上がり始めた。


 階段を上がって改札を通る。家に帰って夕食を食べて母に話をして、今から大体二、三時間はかかるだろう。今日が金曜日で良かった。


 明日が二人共休みだと思えば、じっくりと話す事が出来る。


 ブレザーのポケットからiPhoneを取り出した。今、御茶ノ水駅に着いた事を母にメールしておく。『了解』と短い返事が届いてから、ポケットにしまう前にホーム画面に並んでいるアプリ、ホワイトカプセル・サテライトに目が行った。


 昨日一日、ログインしていなかっただけで、朝よりも随分と遠くにある印象を受ける。いつもなら金曜の夜なんて喜んでログインしていた。


 だけど、今日はもしかしたらログイン出来ないかも知れない。


 流石に二日ログインしなかったら、チャットのメンバーは心配するだろうか。せめてソウさんにはDMを送っておくべきだろうか。立ち止まってそう考えた。


 だが、咲貴はその考えを否定した。


 チャットメンバーは確かに大事。あそこは理想の自分になれる唯一の場所。教えてもらった事は数多くある。でも、今日からは……。


「よしっ、」


 誰にも聞こえないくらいの小さな小さな決意表明。


 咲貴はiPhoneをポケットにしまって、家に向かって歩き始めた。


 今日、この瞬間から彼女は、変わるのだ。

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