「第3章 自分の体は世界に一つだけしかないんだから」
「第3章 自分の体は世界に一つだけしかないんだから」(1-1)
(1-1)
そう言えば、今日の金曜ロードショーってなんだっけ?
佐々木 康介はふと思ってキーボードを叩く手を一瞬、止めた。しかし、すぐに答えが浮かばなかった。デスクに置いているiPhoneで調べれば一瞬で解決するが、そんな時間があるなら、目の前の仕事を片付けたい。
一秒でも早く帰りたい。残業中はその気持ちが何よりも優先される。
康介がそう考えていると、モニターを挟んで向かいに座っている安藤が顔をズラしてきた。
「俺、もう帰りますけど、佐々木さんはまだやっていく感じですか?」
「ああ。明日休みだから、やれるところまでやっておきたい」
「へぇ、流石っすね。俺、今夜は友達と呑みなんで」
こちらを少し嘲笑するような“流石”という単語を彼から聞いた。そんな事は社会人になってからよくある事なので、どうにでも出来た。
「あっそ。早く行っちまえ」
「はーい。それじゃお先です」
康介の返事を聞いて、安藤は笑いながらPCの電源をシャットダウンしていた。彼は立ち上がりハンガーラックに掛かっているジャケットを羽織って、トートバッグを肩に掛けた。
「お疲れ様でーす」
「はいよ。お疲れ」
フロアから出て行く安藤の方を向かずにキーボード触りながら彼に挨拶をする。首から下げている社員証兼カードキーでフロアを開ける電子音が鳴ってドアが開き、そして閉まる音がした。その間、康介はキーボードを叩き続けている。
「ふぅ」
安藤は彼より二年後に入社してきた後輩だ。あんな調子でも与えられた仕事はきちんとこなして、要領もいい。そのため、康介とほぼ変わらない数の案件を抱えている。
同じような仕事量なのに帰れる安藤と帰れない自分。一人になるとつい、比較してしまうが人は人、自分は自分だと言い聞かせて仕事に意識を戻した。
康介は大学三年生の合同説明会の時、自分の中にこれと言って、やりたい仕事がないという事実を知った。友人達の第一希望の会社に内定が出て嬉しいとか、第三希望だったけど、業種は同じだから頑張るとか。
そういう話を遠い世界の話のように感じていた。
何もなかった康介は、周りが就職していく事に焦り、自分でも出来る仕事を探した。その結果、今の会社に就職する事が出来たのだ。ニートやフリーターにならずに済んで嬉しかったのが、就活の一番の思い出だ。
入社したのはネットワーク関係の下請け会社。関連会社から振られた案件を調整して環境を整えていく。その一環として、市役所や電柱管理会社に申請や会議に行く事も多い。予め関連会社と納期を決めても至急対応という言葉の名の下に納期を無視されるので非常に面倒くさい。
前任者の田淵さんならやってくれたとか言われても、康介には真実かどうか分からない。それに向こうが話す田淵は相手の都合の良いようにしか動かなかった為、手つかずで大量に放置された厄介な案件を残して退職している。
二年かけて少しずつ消化しているが代償として、康介の残業時間と有給出勤の回数が増えていった。安藤も似たような案件を抱えているはずだが、上手くやっているらしい。しかし、彼と同じスタイルにするのは難しかった。
康介は明日が土曜日だと思うと、友人達との呑み会なんて断って、好きなだけ残業が出来ると考えてしまうくらいには浸かっている。
今、このフロアには康介を含めて三人しかいない。その為、キーボードの音がよく響いた。残業の面子はいつも大体固定されていた。一つのテーブルの向かい合わせにして、縦四列に繋がれたシマと呼ばれるテーブル群。それにあと二人残っている。
康介は届いている大量のメールに一つずつ返信を書いていく。ここで手を抜いてしまうと翌週、月曜日が大変な事になってしまう。未来の自分を助ける気持ちで彼はメールの返信を書いていた。
作業を続けてフロアの時計の針が二十三時を過ぎた。
ようやく康介の作業に一区切りが付く。
家に帰れる。その見通しが立った時、彼の頭は物凄い解放感で溢れていた。あまりダラダラしていると余計な問題を見つけてしまう。すぐに PCの電源を切る。
帰ると決めたらすぐに電源を切りなさい。
それは入社して最初に先輩に教えてもらった教えだった。
康介が座っているシマには自分以外誰もいない。PCがシャットダウン作業を進めている間にゴミ箱をとっとと片付けて、照明を消す。一部分だけを残して今までいた部分が暗くなった。遠くにいる二人は、まだ仕事を続けるようでキーボードの音が聞こえてくる。
この時間になると、外線もかかってこないのでイヤホンをして作業をしている人も多い。その方が集中出来るとの事だが、康介には無理だった。
ハンガーラックからスーツを取って、袖を通す。忘れ物がないのを確認してから、トートバッグを持ちフロアのドアへ向かう。先程の安藤と同様に社員証兼カードキーでロックを解除すると、ドアを開けた。
ドアを開けて廊下に出て閉まる前に「お疲れ様です。お先に失礼します」と言うと、遠くから「お疲れー」と声が返って来た。
会社を出て、地下鉄の最寄り駅へ向かう。外回りで出て以来、会社に籠ったまますっかり夜になっていたので景色も変わっていた。昼間に前を通った時は開店準備中だった駅前の焼き鳥屋は暖簾を片付けていて、閉店作業をしていた。
数時間前はあそこで誰かが楽しい金曜の夜を過ごしていたのだと一瞥する。
東京メトロへと続く階段を降りて、改札を通った。長いエスカレーターを降りてホームに到着した。電光掲示板を見ると、終電までまだ大分あった。
今日は終電前に帰れる。その現実が解放感を更に増長させてくれた。地下鉄到着までの数分、康介はやる事がなかった。一応、こんな時の為に買った文庫本は買ってから、二週間トートバッグに入れっぱなしになっている。
ずっと読みたい意欲があるのだが、中々手が伸びないのが現状である。いっそ代わりに誰かに読んでもらって解説してもらった方が早いのかも知れないとすら、思えてくる。
読書の代わりに康介は、スーツのポケットからiPhoneを取り出した。手の中に収まるパソコンのような便利さが、気に入っている。指先で操作が出来るので文庫本を読むよりも負担が少ない。
ロックを解除してホーム画面へ。沢山並んだ無料アプリから一つのアプリを選択する。ホワイトカプセル・サテライトというチャットアプリで今、康介が一番使用頻度の高いアプリだった。
IDとパスワードを入力してログインする。初回登録時に答えたアンケートによって、康介のハンドルネームは自動的に決められる。その結果、彼のハンドルネームは『ポー』となった。何故そんな可愛らしいハンドルネームになったのか不明だが、不便じゃないのでそのまま使っている。
加えてこのアプリが二十三時からしか、ログイン出来ない仕様なのもよく分からなかったが、平日はむしろこの時間からの方が助かっている。
【ログイン中……】と文字がディスプレイに表示されている。乗車前にログインを済ませておきたい。乗ってからだと、どうしても速度が遅くなる。康介の願いが通じたのか。どうにか地下鉄がトンネルの向こうから出て来る段階でログイン出来た。
チャットルームに入るとサイドバーにはいつものメンバーの名前が表示されていた。そこに『ポー』の名前が”ログイン中“と新たに表示される。
ビキ:『あ、ポーさんが来た。こんばんは〜』
とうふ:『本当だ。こんばんはです』
ソウ:『こんばんは、ポーさん』
既に会話をしているのに流れを切ってまで、三人は挨拶してくれた。三人のチャットメンバーはお互いをハンドルネームで気さくに呼び合って、いつも会話を楽しんでいる。そこに康介が入る事はない。それには理由があった。
到着した地下鉄のシートに座った康介は、アプリから顔を上げて車内の様子を窺う。
金曜の夜、所謂華金と呼ばれる時間を満喫する、頬を赤くして仲間と談笑している者達、対照的に一週間の体力を全て使い果たして、ぐったりとシートに体を預けている者。
両者共、今朝は満員電車に揺られて会社に出勤した事は一緒だ。
一方でアプリにいる彼らは満員電車に揺られて会社になんて、出勤していない。今だって皆、自分の家にいる。そんな事を考えてしまうと、自分と彼らとの間に明確な壁があるように感じていた。
アプリに登録した時、十六歳から二十二歳までしか利用出来ないと年齢制限が書かれていた。康介は本当の年齢制限を書いて登録している。
それでハンドルネームが付いてログインしているのだから、システムには問題ないはず。だからと言って気楽には、書き込めない。
会社の中だけじゃなくてこんな匿名のアプリでも、空気を読んでいた。
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