「第3章 自分の体は世界に一つだけしかないんだから」(1-2)

(1-2)


 スーツの内ポケットからイヤホンを取り出して両耳に入れる。iPhoneを買った時に箱に入っていたイヤホンで初めは耳がイヤホンの形に合わなくて、痛かったけど回数を重ねる内に痛みが和らいだ。

 無事に適応化されたという事だ。


 ミュージックアプリを開いてPCから取り込んだ曲を選択する。何年も前から聴いているお気に入りの曲を流していた。聴いていると一時的にでも当時に戻れて気分が楽になる。


 地下鉄から路線を乗り換えて、最寄り駅に到着した。大学がある駅なので金曜の夜は騒がしく、また彼らに対応して遅くまで開いている居酒屋も多かった。そんな中、康介は駅前にある牛丼屋に足を運んだ。


 まるで居酒屋の騒がしさから隠れるように営業しているチェーンの牛丼屋。

 ガラスの向こうから見える店内は康介と同じように仕事終わりで疲れたサラリーマン達の背中が並んでいた。彼らに仲間意識を感じつつ、店内に入る。


 目を細める程明るい照明の下、空いているカウンターに座る。座って少しすると目の前に冷たい水が入ったコップが置かれた。すぐに手を伸ばしたいが、注文が先だと我慢して、持って来た店員に牛丼並盛を注文した。


 この時間はカロリーが多い物は胃に負担を掛ける。手軽でしかも安価な牛丼並盛で康介は充分だった。注文した牛丼がやって来るまで、再びチャットアプリを開いた。チャットルーム内では楽しそうに話が続いている。


 ビキ:『あ〜、来週からいよいよ中間テストなんですよ。憂鬱だなぁ』


 ソウ:『おっ、大変だ。頑張って、応援してます』


 とうふ:『うん。俺も応援してます』


 ビキ:『うぅ〜、二人ともありがとうございます。頑張ります!』


 とうふ:『だけどほらっ、テスト期間中って早く帰れるから楽じゃないですか。どの分、お得だと考えましょうよ』


 ビキ:『え〜、そういう事言います?』


 とうふ:『?』


 ソウ:『とうふ君ってテスト期間中、帰って勉強とかしないんですか?』


 とうふ:『俺は一夜漬け派だったので。昼間は寝てたり、友達と遊んでました』


 ビキ:『えー。一夜漬けって身に入らないんですよ? 知ってました?』


 とうふ:『た、確かに。当時、勉強した事、あんまり覚えてないです……』


 ソウ:『あーあ。勿体ない』


 いかにも学生らしい会話がiPhoneの中で続いていた。自分が定期テストの時はどうやって勉強していたかな。とうふみたいに一夜漬け派だったかな。そんな事を考えていると、目の前に牛丼並盛が置かれた。


 置かれたどんぶりから立ち上る牛肉の香りにようやく顔を出してくれた食欲。

 代わりに彼らの話題に関する興味が薄れてしまった。カウンターにある容器から紅生姜を少し入れて箸を取る。知っている牛肉の味が口の中いっぱいに広がった。顔を出した食欲はちゃんと傍にいてくれた。お蔭で康介は食べ続けられた。


「ふぅ」


 最後の一口を食べ終えて細い息を吐く。その息に一週間分の疲労を蓄積していたらしく、体が軽くなった。食べ終えた康介は会計を済ませて店を出る。


 疲労を吐き出した事で自分の金曜の夜は、たった今から始まるのだ。と強く実感した。明日は何も予定を入れていない。明日は目覚ましなしで眠ってやる。

 そんな小さな楽しみを胸に秘めて彼は足を進めた。


 自宅マンションに帰る前にコンビニで酒とつまみを買った。明日が休みという事は、今夜は何も気にせずに酒を飲める。先週は土曜日も出勤だったからこの嬉しさはひとしおだ。

 ビール、ハイボール。それに辛口サラミが入ったビニール袋を持って康介はコンビニを出た。

 

 駅からは十五分も歩けば住宅街で、この時間はシンとした雰囲気を纏っている。ここまで来れば駅前の学生の騒がしい声も聞こえない。マンションに到着してオートロックを開けた彼は、エレベーターに乗り五階のボタンを押した。


 自分の部屋の前でガチャリと鍵を回して中に入る。このマンションに住み始めてからもう三年が経つ。最初こそ行きと帰りには「行ってきます」と「ただいま」を欠かさなかったが、いつの間にか言わなくなっていた。


 冷蔵庫に買って来た酒を入れて、洗面所で手洗い・うがいを済ませる。ワンルームの康介の部屋。引っ越した当初は実家と比べて狭いなと思っていたが、今ではこちらの方が心地が良い。大して物も置いていないので掃除も楽だ。


 重苦しいスーツを脱いでシャワーを浴びて体に付着した一日の汚れを洗い落とす。それから部屋着に着替えて、冷蔵庫からビールとツマミを取り出した。PCデスク前のイスに座って電源を入れる。起動する前にビールの缶を開けて一口。


「あぁ〜」


 大人になって分かる独特の苦味と炭酸が口の中いっぱいに広がった。起動したPCで適当なサイトを巡回しながら時間を使った。


 大学生時代に買ったMacBookProはローンも払い終えている。たまに動作が不安定な時があるが、まだ買い替える予定はない。しばらく巡回していると唐突に「あっ、」と声を出した。放置していたアプリの存在を思い出したのだ。


 牛丼屋で見たのが最後。現在の時刻は一時を過ぎた頃だった。あのアプリは二時まで使用時間なのであと少し残っている。


 チャットルームを覗くと、メンバーは誰も抜けておらず楽しそうな会話を続けていた。このままフワッと消えてしまおう。


 康介は放置していたチャットルームから退室した。『ポー』にとっては、入室と退室をする時だけが自己の存在を主張する機会だった。入室時にはメンバーの反応が見れるが、退室時には見えない。でもきっと彼らの事だから「おやすみなさい」と挨拶をしてくれていると思う。


 アプリをログアウトすると、そのままデスクにiPhoneを置いて意識をMacBookProへと向けた。続けざまにビールとハイボールを空にすると、程よく酔いに支配されて足元がふらつき始めた。

 流していたYoutubeの内容があまり頭に入ってこない。こうなったら寝るというのが彼の決めたルールだった。


 転ばないように慎重に足を運んで洗面所へ行き歯ブラシを済ませる。


 戻って来る時に冷蔵庫から飲みかけの500mlの水のペットボトルを取り出して、口を付ける。酔いが少しだけマシになってきたのを感じつつ、ベッドへ倒れ込んだ。


 ボスッと安物のベッドが軋む音がした。


 MacBookProの電源は点けっぱなしでiPhoneも部屋着のポケットに入れたままだったが、そんな事はどうでも良かった。飲酒から来る眠気に逆らわず、康介は目を閉じて眠りに付いたのだった。


 翌朝、康介は八時半過ぎに目を覚ました。


 目の前にあるはずiPhoneがない事を寝ぼけた頭で不審に思ったが、ポケットの違和感から、入れっぱなしなのを思い出して、取り出した。


 目覚ましなしで寝てやると意気込みながら、結局そんなに深く眠れていない。


「あ〜、もぅー!」


 朝の部屋に誰かに聞かせる訳でもない怒りを叫ぶ。学生時代は寝ようと思えば、それこそ何時までだって眠る事が出来た。寝過ぎて逆に体調が悪くなった事があるくらいだ。


 社会人になってからはどれだけ疲れていても体は無関係に起きてしまう。

 本来、自由であるはずの自分の意志すら誰かに操られている感じがして、康介の中には、どうしてようもない感情が増えていく。


 貪ろうとしていた怠惰を他ならぬ自分に邪魔されてしまい、朝から康介のテンションが下がる。モゾモゾと布団に潜り直してせめて十時まで寝てやると、目を閉じた。だが結局、一時間ぐらいしか眠れなかった。


 康介の週末は、スーパーの買い物以外は外出しない生活を送って過ごした。情報番組や旅行番組が代わりに出掛けてくれたので、それを観て行った気になった。


 日曜日の夕方には一週間分のアイロンを終える。

 その時間帯になると、来週こそは有意義な週末を過ごそうと決意して終わった。

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