「第2章 透明な宇宙を着ている私」(2-2)

(2-2) 

 シャワーを済ませてリビングに戻ると、母はソファに座ってテレビのニュースを観ていた。入って来た咲貴に振り返る事はない。

 咲貴は空になったマグカップに水を注いで一口飲む。冷たい水分がシャワーで火照った体に染み渡った。


「お母さん、私もう寝るね。おやすみなさい」


 母の背中に向かって咲貴が声を飛ばす。自分の声がちゃんと届いているのか一瞬、不安になったが彼女が振り返ってくれた。


「おやすみなさい」


「うん」


 母からの返事をもらってから咲貴はマグカップに水を汲んでから、リビングを出た。部屋に戻った彼女は文庫本を読んだりMacBook Airで適当なサイトを見たりして、時間を調整する。


 ホワイトカプセル・サテライトの時間まで残り五十分を切った。咲貴は少し仮眠をしようと部屋の電気を消してベッドで横になる。チャット前に仮眠を取るか取らないかでは、翌日の全てに影響するので大切な事だった。


 また仮眠のし過ぎで、チャット自体を寝過ごしてしまった事が何回かあるが、きっと葵なら諦めるだろうと、素直に諦められた。アラームをセットして目を閉じる。


 目を閉じて呼吸を緩やかにしてしばらくすると、自分の意識が奥へ沈んでいく感覚が生まれた。それに逆らわず身を任せる。


 ――ピピピッ。


 体の外からiPhoneの電子音が聞こえてくる。


「んっ……、」


 それに反応して沈んでいた意識が浮上した。目を細く開いてiPhoneのアラームを止める。時刻は二十二時五十分。アプリの開始十分前。


 咲貴はベッドから起き上がって、体の疲労具合を確認した。この後のチャットが可能かどうかを自己診断する。


「うん、」


 自己診断の結果を暗い部屋で呟いてから、咲貴は部屋の電気を点けた。ベッドから立ち上がり、デスクへと向かう。イスに座り小さく深呼吸。

 iPhoneのホーム画面からアプリを起動して梅津 咲貴から『ビキ』となった。


 ログインしてチャットルームに入ると、そこにはいつもメンバーがいた。皆がいる事を嬉しく思いながら、早速チャットを書く。


 ビキ:『こんばんは〜! 皆さん、水曜日もお疲れ様です!』


 ソウ:『ビキさん、こんばんは。今日も元気だね』


 咲貴の書き込みに返信したソウ。余裕のある年長者である彼の書き込みに意気揚々と返す。


 ビキ:『ええっ! 私、このメンバーじゃ一番若いですから。女子高生にとってはここからの時間が本番なんですよ!』


 ソウ:『なるほど。確かに僕も高校生の時はテスト前によく勉強したなぁ』


 ビキ:『あ、やっぱり? 皆、そうですよね。私もです。学校に行く途中の電車の中でもノート開いてますもん』


 実際には咲貴はそんな事をしない。だが『ビキ』はした事があるのでイメージのまま返す。そう考えていると、ログイン表示はされていたのにそれまで会話に入ってこなかったとうふが入って来た。


 とうふ:『こんばんはー。一夜漬けの話ですか? 自分はやろうとして失敗してる方ですね。少しだけやって満足しちゃって。ダラダラ過ごしちゃって気付けば朝って感じです』


 ビキ:『こんばんは。うわぁ、とうふさんっぽいー』


 ソウ:『うんうん。僕も何となく光景が目に浮かぶ』


 咲貴とソウが同意すると、『ちょっと〜、二人いるんだから。一人はこう慰めるとか〜』と返信が返って来た。読んで思わず頬が緩む。


 歳上の男性をこんな風にからかえるのは、このアプリの中だけで現実ではそんな事はとても出来ない。


 だからこそ、ソウと二人でからかえるこの関係が好きだった。たまにやりすぎてしまったかなと心配する日があったけど、翌日も彼は何事もないようにチャットルームにきてくれるので、それに甘えてしまう。


 一夜漬けの話題から派生して、効率的な勉強方法の話にシフトしていく。


 三人がそれぞれの勉強法で盛り上がっていると、あっという間に二時五分前になった。


 ホワイトカプセル・サテライトの終了時間がせめてあと、三十分でいいから延長してくれたらいいのになと咲貴は、右上の残り時間を恨めしく見てしまう。もし、他の三人(一人はずっと発言はしない寡黙な人)が同じように考えてくれていたらいいなと願うが、違っていた場合が怖いので余計な事は書けなかった。


 ビキ:『あ、もうチャットの時間が終わりますね』


 とうふ:『本当だ。もう、そんな時間か』


 ソウ:『早いですね。そろそろお開きだ』


 チャット全体の雰囲気が終了へと向かっていく。あと一人いるメンバーの書き込みは見た事がないけど、ずっとサイドバーにログイン表示はされているので、読んでいるはずだ。最初は少し不気味に感じていたが、今はもう慣れてしまった。


 ビキ:『明日も学校かぁ〜。面倒だなぁ』


 ソウ:『もう木曜日だから。あとちょっとで今週も終わるよ。頑張って』


 ビキ:『は〜い。ソウさんも頑張ってください』


 とうふ:『あれ? 俺は?』


 ビキ:『はいはい。とうふさんも頑張って』


 とうふ:『うーん。はい、頑張ります』


 ビキ:『よろしい。では、今日はココまで。と言う事で皆さん、おやすみなさい。また明日』


 ソウ:『おやすみなさい。ビキさん、とうふ君』


 とうふ:『おやすみなさい。皆さん』


 三人がそれぞれの挨拶をして咲貴はアプリからログアウトをした。二時を過ぎると、もうログインは出来ない。DMの機能があるだけだ。


 チャットを終了した咲貴は、「ふぅ〜」と息を吐いた。デスクに置いていたマグカップを手に取り、口を付ける。常温の水を飲んで渇いていた喉を潤した。


 イスから立ち上がり部屋の電気を消すとベッドで横になった。明日、起きる時間にiPhoneのアラームをセットする。もうこれ以上はディスプレイを見ない方がいいと決めて、手を離した。


 真っ暗な部屋で咲貴は目をつむる。チャットが終わってからまだ十五分程度しか経っていない。彼女の中にはまだ『ビキ』としてチャットをしていた感情の名残があった。


 二十三時から二時までの僅かな時間、『ビキ』になる意味は、きっと葵には分からないだろうな。彼女だったらチャットだって毎日はログインしていない。それよりもDM機能を多用しそうだ。


 回数制限はあるものの、アプリの利用時間以外でも唯一、メンバーと交流が出来るDM機能。咲貴にはとても怖くて利用出来ないあの機能も平然と使いこなすに違いない。


 ――そう、もし葵が『ビキ』だったら。


 そこまで考えて咲貴の意識は沈んでいった。

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