「第2章 透明な宇宙を着ている私」(2-1)
(2-1)
出来上がったチキンカレーを一度寝かせて、味を染み込ませるのが、梅津家の作り方。このやり方は父のアイデアだった。その父がいなくなった現在でも奇妙な事に今の梅津家に残っている。
一時間程置いておくので咲貴は再び、自室へと戻ってきた。
デスク前のイスに腰を下ろして、深く深呼吸をする。この部屋だけが満足に酸素が供給されている気がした。学校でもリビングでも私は、透明な宇宙服を着ていないと満足に呼吸が出来ない。
デスクに置かれたシャーペンを手に取り勉強の続きをしようと思ったが、モチベーションが湧かなかった。
代わりに点けっぱなしにしていたMacBook Airを操作する。世界中で起きている出来事を十三インチの小さなディスプレイから他人事のように眺める。
ディスプレイ右上の時間を見ると、あれから四十分程度が経過していた。目が疲れてきたのでMacBook Airの電源をスリープにする。目を休めようと、瞼を閉じて上を向いた。部屋の明かりが鬱陶しい事に気付いたけど、消す為に動くのも面倒だったので、そのままにしておいた。
その体制で十分程過ごしてから、ゆっくりと目を開き咲貴は立ち上がった。
再び透明な宇宙服を着て、空になったマグカップと共に部屋を出る。
リビングに入ると母はいつものようにノートパソコンで仕事をしていた。入って来た咲貴に目を合わせずにキーを叩いている。
「もうそろそろ、カレーが良い感じだと思うけど……」
「そうね、ご飯にしましょう」
こちらを見ずに母はそう答えてから、尚もキーを叩き続ける。咲貴が戸棚からトレーと皿を用意していると、彼女はノートパソコンの蓋をパタンと閉じて横にズラした。隣は元々、父の席だった。今は書類置き場と化している。
IHの電源を入れて少しカレーに熱を入れてから、皿に盛り付けた。事前に決めた訳じゃないけど、テキパキとお互いに役割分担が出来ていた。今日の夕食はチキンカレーとサラダ。それと福神漬けだ。
並べられた二人分の夕食を前に咲貴は、手を合わせる。
「いただきます」
咲貴が言うと向かい側に座る母も同じく手を合わせた。
「いただきます」
今の梅津家には夕食時にテレビを観る習慣がない。理由は食べる時間が遅くなるから、会話もなくカチャカチャとスプーンと食器が当たる音だけがリビングに響く。
この無言の食事に耐えられなくて最初は、咲貴から色々と話しかけていた。
学校の事や普段の事、時には母の仕事についての質問など彼女が思い付く限り、色々と話題を提供した。でも、どんな話をどれだけしても彼女は、一言二言しか返して来ない。その現実に咲貴は次第に話題を振らなくなり、現在の環境が完成した。
重たい雰囲気から早く逃げるようにカレーを口に放り込む。好きな味が広がる時が唯一、酸素を吸い込めている気がした。
「ごちそうさま」
夕食を食べ終えた咲貴は手を合わせる。母はまだ食べていた。自分のiPhoneを見ながら食べているので、食事のスピードは遅い。
「はい」
咲貴の言葉を聞いて母がまた、こちらの見ずに答える。
自分のトレーを流し台へ運ぶ。食器を洗うのは母の役目だった。何回か手伝うと申し出た事があるが、そんな事をする暇があるなら勉強していなさいと一蹴された。
咲貴は冷蔵庫からお茶を取り出して、自分のマグカップに注いだ。
「部屋で勉強してるね」
「ええ」
短い言葉だけを交わして咲貴は部屋に帰る。デスクにマグカップを置くとイスに座らず横にあるベッドに倒れ込んだ。仰向けになって手で目元を隠す。
それで視界を簡単に暗くする事が出来た。
五分、その姿勢でいた咲貴が手を離してポケットに入れていたiPhoneに手を伸ばす。現在の時刻は十九時四十五分。ホワイトカプセル・サテライトまで時間がある。それまでに色々と雑務を済ませないといけない。
グッと体に力を入れて、横になっていた体を起こした。アプリを利用する前は何度かうたた寝をしてしまった事もあった、母はまず部屋に入って来ないので、寝てしまったら、そのまま朝まで過ごしてしまう。
咲貴はベッドから立ち上がり、デスクに置いていたマグカップに口を付ける。まだ若干、冷たかったお茶が喉を通り、体を活性化させた。
「んん〜」
その場で伸びをして体を解してから、イスに座る。先程と同じようにiPhoneのタイマーで時間を計りながらの勉強を再開した。最初は少なかったモチベーションも一度勉強を始めてしまえば、次第に上がっていく。
勉強を進めていると、ふと咲貴の手が止まった。別に難問で手が止まった訳ではない。
「あっ、そうか」
小さな声が口から零れる。前触れもなく唐突だが、理解してしまった。
母がリビングでノートパソコンを叩いているのと、自分が勉強をしているのは同じだという事に。
要は時間を潰しているのだ。お互いに家にいるこの時間が苦痛で逃れる為に邪魔される事のない自分だけの方法で時間を潰しているのだ。
この家で透明な宇宙服を着ているのは私だけじゃなかった。親子だからこそ分かった秘密に親近感を覚えて口が緩む。それから、二十時半を過ぎたあたりで勉強を終わらせて通学カバンから文庫本を取り出して読書に入った。
iPhoneのタイマーは必要ない。丁度、良い章まで本を読むと、パタンと本を閉じる。そしてシャワーを浴びに部屋を出た。
湯船を貯めるといつまで入っていいか分からないので(母は言って来ないと思うが、待たせるのは悪い)咲貴はずっとシャワーしか入っていない。
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