「第2章 透明な宇宙を着ている私」(1-2)
(1-2)
お互いの路線の丁度、真ん中で葵とは別れる。
「じゃ〜ね、また明日」
「うん。また明日」
葵と別れて咲貴はJRの改札を抜けて中央線へ。一人になると、寂しさと身軽さがあった。ここからは今朝と同じようにして帰る。
いつもと同じエスカレーターからホームに上がり自動販売機の付近の列に並ぶ。
少ししてから電車が到着して、空いているシートに腰を下ろした。
ここから最寄り駅の御茶ノ水駅まではおよそ十五分。咲貴は通学カバンに入れていた文庫本を取り出した。
朝の途中で止まっていた文庫本の続きを目にすると、数時間分を一気にワープした気分になる。電車が発車して風景が流れる中で読書を始めた。
この僅かな時間の読書が彼女は好きだった。時間が短い方がより物語に深く集中出来る。
最寄り駅に到着して他の乗客と一緒に御茶ノ水駅に降りる。御茶ノ水駅の改札を抜けると、少し歩いた先にあるスターバックスに目が向いた。
葵の誘いを断ってしまった事を連想してしまい時差式交差点の信号待ちの分だけ自己嫌悪に陥る。以前は彼女と放課後によくスターバックスに行っていた。ここ最近は行けていない。
その理由は二つ。
一つは時間がかかってしまうから。
葵と話すのはとても楽しいのだけど、ずっと話していると、時間があっという間に流れしまう。そうなると家に帰ってからやろうと思っていた事が出来なくなってしまう。と言っても、勉強や読書などの時間を融通すれば、調節は可能である。
問題は二つ目の方だ。
二十三時から二時の間、咲貴の時間はホワイトカプセル・サテライトに固定されている。『ビキ』として、あそこにいる時間は彼女の一日の中で何よりも大切な時間なのだ。葵と話してしまった事でズレた時間の帳尻をそこに
たとえ、葵との時間を天秤にかけたとしても。
時差式の交差点がようやく青になり、咲貴の自己嫌悪は終了する。
駅前にある丸善に寄って少し物色してから、自宅マンションへ帰った。玄関のオートロックを開けて、ポストを確認。届いた郵便物を手に持ち、エレベーターに乗る。
「ただいま」
玄関のドアを開けて声を出す。だが目の前の真っ暗な空間からは、当然返事はない。母親はまだこの時間は家にいないのだ。
両親が離婚して、母親が働き始めてからそういう生活になっている。だけど、当時の癖から「ただいま」は言うようになっていた。
自分の部屋に通学カバンを置いて、洗面所で手洗い・うがいを済ませてリビングへ。デロンギのコーヒーメーカーに水を入れてスイッチを入れる。
戸棚から自分のマグカップとコーヒー豆を取り出して、豆を入れてボタンを押す。ギュイーンと豆を挽く音が静かなリビングに響き渡る。
コポコポと音を立ててカップにコーヒーが抽出されていく。この時、カップに注がれるコーヒーの香りにホッとした。
コーヒーが入れ終わると咲貴は、マグカップにそっと口を付ける。
「美味し、」
口内に広がる心地良い苦味にそう感想を漏らして、コーヒーメーカーのスイッチを消した。冷蔵庫からミルクを取り出して、少しだけ足してから自分の部屋へ。デスクに置いてあるジブリのコルクコースターの上にコーヒーを置くと、制服を脱いで部屋着になった。軽くなった体でデスクに置いている母のお下がりである、MacBook Airの電源を入れる。ディスプレイが明るく光り、パスワードを入力する。起動を待ちながら、更にコーヒーを一口。
ニュースサイトやYouTubeを適当に巡回して満足した咲貴は、通学カバンから勉強道具一式を取り出した。iPhoneのタイマー機能で時間を計りながら、今日学校で習った箇所の復習を始める。
理解が怪しい箇所があったら、目星を付けて家で復習して消化する。分からない箇所はそのままにせず、その日中に綺麗にしておく。
違和感をそのままにしておくのも嫌だし、完璧に理解出来た時はとても快感だった。
高校生になってから、この作業は咲貴にとって習慣となっていた。
ピピピピッ。
iPhoneのタイマーが鳴る。それまで集中していた咲貴の脳が緩やかになる。
「ふぅ」
口から息を漏らして固くなった頭を解していく。ある程度の箇所までは集中出来た。あと少しやってから文庫本を読もう。でもその前にトイレに。
咲貴が立ち上がり部屋のドアを開けた。廊下に一歩足を踏み出した時、ガチャリと玄関の鍵が回る。重たい金属音が廊下に響いた。
トイレに行きたかったけどしょうがない。後々の事を考えてすぐに部屋に戻る。玄関のドアが開いてスーパーの袋が置かれた音がした。パンプスを脱ぐ音も聞こえる……、今だ。
咲貴は何も知らない風を装って、部屋のドアをもう一度開ける。
「あ、おかえりなさい。お母さん」
「ただいま、咲貴。ちょっとこれ持って行ってくれる?」
「うん」
言われた通り、スーパーの袋に手を伸ばす。咲貴がリビングへ運んでいる間、母はトイレへ入って行った。自分が入りたかったとは言えず、リビングへ行き買った食材を冷蔵庫へしまっていく。しまい終えると丁度、母がやって来た。
「お母さん、買った物入れといたから」
「ありがとう。勉強してたの?」
母は冷蔵庫からお茶を取り出して、戸棚から取り出した自分のコップに注ぐ。彼女が飲み終えるまで待ってから「うん。さっき一区切り付いたところ。晩御飯手伝おうか?」
「そう。悪いわね、じゃあお米研いでくれる?」
「分かった。その前にトイレに行って来る。今日の晩御飯は何?」
「チキンカレー」
「本当? やったぁ」
少しわざとらしく喜んでから咲貴はトイレへ向かった。用を済ませて洗面所で手を洗う。鏡に映る自分を見てニコッと笑ってみせる。わざとらしくないか、どこも変ではないか。その確認だった。確認を済ませると、咲貴はリビングへと戻る。
咲貴の両親が離婚したのは彼女が小学校六年生の時だ。何故そうなったのか分からない。兆候もなかった。土曜日の昼間、昼食のチャーハンを食べ終わると大事な話があると両親から言われて、離婚の話になったのだ。
咲貴と母はこのマンションでそのまま暮らす。父は二週間後に出て行く。
十二歳の咲貴の頭では、一度に処理し切れない情報を与えられた。
咲貴の意見は大人達の勘定に含まれていないようで自分達で勝手に進めていた。結果を淡々と説明されると、疎外感と同時に二人が知らない大人に見えた。
咲貴が涙を流そうが拒否をしようが、意見は却下されてしまうのを子供ながらに理解した。出来る事は頷く事だけ、ちなみにあの日以来、母はチャーハンを作っていない。
父が出て行って一ヶ月すると、母はエプロンではなくスーツをよく着るようになった。そして父の代わりに毎朝、仕事に出掛けた。咲貴が中学生になると、母は夜遅くにフラフラの状態で帰って来る。疲れ切った体で家事をしようとする母に自分がやるからと言い出して、少しずつやるようになった。
おかげで荒れていた家の中も元の形へと戻って行った。振り返ればあまり良くなかったのかも知れない。
母は家事から仕事へと一日の時間の使い方を変えてしまったからだ。
金曜日の夜から土曜日の昼間まではリビングにノートパソコンを置いてキーボードを叩く音が廊下からでも聞こえていた。母の仕事が順調になっていくのは何となく分かった。帰って来る時間が早くなってきていたからだ。
けど、仕事の緊張を引きずっているのか、あまり笑わなくなった。
咲貴が高校生になってからは、母の笑顔を見た事がない。
そのせいで家の中が息苦しくなった。高校に行かせてもらっている事には勿論、感謝している。だから、母の力になりたい。その気持ちに嘘はなかった。
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