「第2章 透明な宇宙を着ている私」
「第2章 透明な宇宙を着ている私」(1-1)
(1-1)
朝の中央線は沢山の乗客で混雑している。
高校に入学して最初の一週間は、これが三年続くのかと肩をすくめたけど、一ヶ月もすれば慣れてしまった。人間はどんな環境でも適応していく生き物だと我ながら感心する。
梅津咲貴は、そんな事をふと考えた。いつもの時間いつもの列に並んで、やって来た快速に乗る。定位置となったドアとシートの隙間に入り込むと、ブレザーのポケットに入れていた文庫本を取り出した。
平日の朝は決められた行動を取る。昨日や明日と違っているのは、文庫本のページ数と体調の変化ぐらいしかない。嫌ではないけど、好きではない。
それでも中学の頃よりは大分マシになった。
自分が他人より要領が良いと自覚したのは、中学一年生の時だった。初めての中間テストで大した勉強はしていないのに学年三位になった。皆は凄いって言ってくれるけど、同じ授業を受けているのにどうして出来ないんだろうと咲貴は逆に不思議だった。
テストなんて文字通り試しているのだから、授業を聴いて教科書を理解すれば、大体分かる。後はそれなりに問題集を解いていれば点数は取れるのに。たったそれだけの事が友人達は出来なかった。テストで良い点数を取る度に「咲貴は頭が良くて羨ましい」と勝手にラベル付けされる。
それを言われると自分の考える頭が良いとは定義が違うので、ちょっとモヤモヤする。だけど説明しても意味がないのは分かっていたから、口にした事はなかった。
それよりも新しい事を知る事が出来る授業の方が楽しかった。
算数が数学になり英語が始まったりと中学生になって視界が広がった気がしたのだ。未知の事を吸収して、分かった瞬間が快感だった。
高校は地元の公立ではなく電車通学で私立に通うことになった。通わせてくれた両親にも薦めてくれた担任にも感謝している。地元の友達とは遊ぶ機会は減ったけど、入学祝いに買ってもらったiPhoneで連絡先は繋がっている。
進学校の私立なだけあって、勉強は中学より大変だけど頑張れば頑張った分だけ結果に返って来る。充分にやりがいを感じていた。
新宿駅に到着するアナウンスが車内から聞こえて咲貴は、文庫本を閉じてブレザーのポケットにしまった。代わりに反対側のポケットからiPhoneを取り出す。買ってもらったiPhoneには沢山のアプリが入っている。
その中の一つ、ホワイトカプセル・サテライトというアプリを咲貴は気に入っていた。利用時間が限定されている匿名のチャットアプリだ。初回アカウント登録時に幾つかの設問があり、答えていくとハンドルネームがあてがわれる。
咲貴は『ビキ』という名前を与えられて、本来とは違う明るい性格の女子高生を演じていた。現実とは違う自分。当然、他のメンバーは知らない。
そういう人間として『ビキ』として、扱ってくれる。それは咲貴が抱えていたストレスを綺麗に失くしてくれた。ただ贅沢を言うなら、夜だけじゃなくて昼間も使いたい。
小さな不満を抱きつつ、iPhoneをブレザーにしまった。
新宿で電車を乗り換えて小田急に乗り、高校の最寄駅で降りる。そこから他の生徒に混じって、歩くと高校に到着する。下駄箱で靴を履き替えて教室へ。
朝のガヤガヤとした雰囲気は得意じゃなくて、咲貴は誰とも話さずに自分の席に座った。隣の席の田中さんとだけ「おはよう」と挨拶を交わした。
やがて時間になり担任が教室に入ってきて、ホームルームが始まると、今日も長い学校生活が始まったのを実感する。
一時間目の数学から授業を順にこなしていった。午前中の体育が疲れたぐらいで大きな問題もなく、全ての授業がつつがなく終了。
帰りのホームルームで担任が連絡事項を説明して一日の学校生活が終わった。
ここからは放課後。部活や委員会に所属していない咲貴は、掃除当番もなければ学校に留まる理由もなく、すぐに帰る。
定期テスト期間中は、図書室で勉強する事もあるけど、基本的には自分の部屋で勉強している。今日もその予定だ。帰り支度をしていると、彼女の肩をポンっと誰かが叩いた。その叩き方でもう相手が誰か分かる。
咲貴が振り返ると、そこには満面の笑顔を浮かべた弓木 葵がいた。
「咲貴ちゃん、帰ろ〜」
「うん。帰ろう」
葵とは出身中学の友人がお互いにいないという共通点から仲良くなった。四月の時期に彼女と友達になれたのは、本当に助かった。
二人して教室から出て、下駄箱に向かう。
その間、葵は多くの生徒から「葵、さよなら〜」と挨拶されていた。彼女はそれに気さくに「バイバ〜イ」と返している。隣にいるだけの咲貴はそれが恥ずかしかった。たまに自分に挨拶をされた時だけ、微笑んで手だけ返している。
咲貴と葵は今日一日の話をしながら、学校を出て最寄り駅までの通学路を歩いた。学校ではあんなに人気者の彼女を独り占め出来るのが嬉しかった。
「――でね。その時に弟がさ〜」
「うん」
二人の時、咲貴は聞き役に回る事が多い。よく葵からは「咲貴ちゃんからも色々話してよ〜」と言われるが、咲貴自身は今のままでいいと思っている。
実際、葵の話の方が自分の話よりも断然、面白い。起承転結がしっかりしてて、オチもあって聞いていて笑ってしまう。お笑い番組が好きというのも分かる。
それに比べると自分の話なんてつまらない。やってる事も家に帰ったら、ずっと本を読んでいるぐらい。兄弟だっていないし、テレビ番組もニュース以外は基本観ない。何か葵にとってプラスになれる話が出来たらしたいけど、それがない。
ホワイトカプセル・サテライト。咲貴が『ビキ』となって話している時は、葵をモデルにしている。彼女の話を聞いて、時に笑って返しながら、二人は最寄り駅の改札を抜けて、ホームで電車の到着を待つ。
ホームには色々な学校の生徒がいて、葵に教えてもらわなければ、彼らの学校名を殆ど分からなかった。
やって来た小田急に乗って新宿駅に到着へと向かう。新宿駅からはお互いに違う路線に乗る。咲貴はJR中央線、葵は東京メトロ丸の内線だ。
「あ〜、もう新宿に着いちゃった」
南新宿を越えて新宿に到着する車内アナウンスが流れると、葵は残念がる。自分と離れる事をそんなに残念がってくれる事が嬉しかった。
それを見抜かれないように咲貴は返す。
「まあまあ、続きは明日学校で聞くから」
「えぇ〜、咲貴。お昼はいつも一人で食べてるじゃない。朝はローテンションだし。学校で話せるのは午後の休み時間ぐらいしかないもん。でも休み時間は短いし」
「あはは、」
葵に言われて確かにと咲貴は納得してしまう。昼食時も彼女は別のグループと話して自分は一人だった。学校で話の続きを聞くのは難しい。
「じゃあさ、この後、いつものスタバに行かない?」
「えっ?」
「ね? 最近、行けてなかったし、いいでしょ?」
突然の誘いに驚いている咲貴をグイグイと押してくる葵。彼女はスターバックスでお喋りするのも大好きだった。咲貴自身も彼女と話すのは好きだし行きたい気持ちはある。しかし、咲貴は首を力なく左右に振った。
「ごめん。今日はちょっと用事があって……」
「そっか。用事ならしょうがないね、ごめんね急に」
咲貴が断ると誘ってきた葵の波が嘘のように引いていく。
「ううん。誘ってくれてありがとう。また今度、行こう?」
「うん! 約束だからね!」
引いた波の遠くにいる葵に咲貴が声を掛けると、途端に彼女は笑顔になった。
二人を乗せた電車が新宿に到着すると、ホームには沢山の乗客が待機していた。
まるで宇宙船の窓が割れて酸素が溢れ出すみたいに一斉にホームへ降りる乗客達。そのまま二人は改札を抜けた。
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