「第4章 ソウ」(4-1)

(4-1)


 金曜日の夜。


 栞菜は自宅マンションで課題レポートを必死に書いていた。入学前に買ってもらったMacBook Airはアルミの天板の隅にちょっとした傷が付いて、徐々に使用感が出ていた。


 最初は傷が付いた事をとても落ち込んだが、友人が傷ではなく世界で自分だけの模様が付いたと考えれば良いと言ってくれて、更に愛着が湧いた。


 パチパチと静かな部屋にキーボードをタイプする音が響く。何とか今夜中にレポートを終わらせて週末を楽しく過ごしたい。


 明日は、友人二人と新宿で映画を観る約束をしている。それを楽しむ為にも余計な引っ掛かりは消しておきたかったのだ。数時間集中してキーボードを叩いて、広げた資料を覗きながら、栞菜はどうにかレポートを完成させた。


「やったぁ、終わったぁ」


 レポートが終わると、両手をダランと重力に任せて下げた。

 疲れが頭の先からつま先へ流れていく。デスクに置いていたスターバックスのコースターに乗せたマグカップに手を伸ばした。

 口に含んだ途端、すぐに離して反射的に舌を出す。冷めてしまったインスタントコーヒーは、苦くて飲める物ではなかった。


 友達がコーヒーメーカーを買うと、QOLが上がるから絶対オススメだと強く言ってくるので、映画を観た後はヨドバシカメラに見に行く予定だ。買うかどうかは置いておいても見るだけでも楽しめそうだった。

 

 マグカップを置いて、出来たてのレポートに目を通す。

 何箇所かの誤字脱字を修正して、栞菜はレポートを保存した。


 時刻は二十三時になろうとしていた。終わったらシャワーを浴びるつもりだったから、まだ入っていない。早く入って明日に備えよう。

 映画は午前中、その後はランチを食べて……。


 明日の事を考えて栞菜は、デスクのイスから立ち上がる。


 その時、デスクに置いていたiPhoneがピピピッと音を鳴らした。

 完全に油断していたので、体がビクッと反応する。そうだ、始める前に二十三時になるようにタイマーをセットしていたのだ。


 栞菜はiPhoneのタイマーを止める。何とかタイムリミット前に終わって良かった。安心していた時、ふいに彼女の頭にあのアプリが浮かんだ。


 まだ、あったっけ。


 ホーム画面には沢山のアプリが入っている。ゲーム、ニュース、YouTube、Twitter、LINE。人から勧められたりしてアプリをダウンロードするけど、結局いつも使うアプリは決まってくる。

 容量に余裕があるので消さずに置いているのが多数あった。時間がある時に整理しようと思って、全然出来ていない。


 ホワイトカプセル・サテライトは栞菜のiPhoneにまだ残っていた。

 兄はアプリを消していたと言っていたけど……。


 栞菜は久しぶりにアプリを起動した。


 数ヶ月ぶりに表示されるログイン画面は懐かしさがあった。

 入力フォームに保存されていたのでIDとパスワードは入力する必要ない。

 そのままログインを選択する。

 すると 【ログイン中……】と表示されてから、画面が切り替わる前に【覗き見モードでログインしますか?】と初めてのポップアップが表示された。おそらく兄がアプリを消したからだ。


 覗き見モードでしかログイン出来なかった権限が変化していた。


 つまり栞菜が“ソウ”としてログインが可能であると言う事だ。

 だがまぁ、今日のところは覗き見モードでいいだろう。


 栞菜はいつものように覗き見モードでログインした。


 チャットルームにはソウ以外のメンバーが欠ける事なく、全員来ていた。凄い、皆、今もずっとここにいるんだ。栞菜はDMに簡単に目を通す。


 DMを見るとあの日以降も映画や本の話を中心にあの喫茶店からの会話が続いていた。栞菜と兄の小説や映画の趣味は少し違うが、彼なりに合わせているようだった。


 しばらく映画の話が続いていた時にとうふから、『良かったら一緒に行きませんか?』と誘っていた。そのたった一文にどれだけの勇気が込められているのか一緒にいた栞菜は理解していた。

 だが、一緒に行く訳にはいかない。

 当たり前だけど、兄はその申し出を断っていた。


 一度、誘いを断られて、とうふはもう誘ってこなかった。それは彼の勇気の残量がもうないのか、それとも彼なりの気遣いなのか。真実は分からない。


 その日を境にちょっとずつ、とうふとのDMのやり取りが減っていた。

 チャットには毎日ログインして皆と話していたが、それだけの関係になっていた。関係性が変わってしまった中、ソウは最後のチャットログを見つけた。


 これから就活が本格化するので毎日ログインをする事が難しくなる。

 そのソウの書き込みにメンバーは口々に寂しくなると言って、空いている時間があったら、いつでも遊びにきてくれと書いていた。


 普段、チャットに参加しないポーですら、落ち着いたらまた来ればいいと書いていたのは驚きだった。現実の世界では、兄は誰とも会わないようにしているのに(地元では彼女との事が周囲に知られているので、中高の友達とは会っていないらしい)このホワイトカプセル・サテライト内では、皆から慕われていた。


 メンバーにありがとうと、礼を言ってソウはログアウトした。

 それから今日まで一回もログインした形跡はない。

 チャットルーム左側にあるサイドバーに表示されていたソウの最終ログイン日時は、ログアウトした日で止まっていた。


 兄がいなくなったチャットルームでは三人の会話がメインとなっていた。チャットルームの定員が四人。だがソウは、チャットルームから退会した訳ではないので、どれだけログインしていなくても新しいメンバーはやって来ない。


 三人の中でポーがだんだんと書き込みする頻度が上がっていった。口調は少々乱暴ではあるが、それが二人にとって良い刺激となっており、結果的に年長者でもあるポーがソウに変わってまとめ役をしていた。


 栞菜は、チャットログとDMに目を通し終えた。


「なるほどねー」


 栞菜が口から溢した短い感想は、部屋の空気にすぐに溶けて見えなくなった。

 兄はちゃんと別れを告げたと言っていたが、正直これは自分にとって都合が良い別れだと印象を受けた。

 チャットルームは退会していないし、あの書き込みではいつか戻ってきてくれる(少なくとも就活が決まったら)と期待させてしまっている。本人はもうアプリを消しているのでそんな日は来ない。


 とは言っても、あのアプリは所詮暇つぶしに過ぎない。

 必ず退会をしなければいけない法律はない。

 兄にとってアプリと職業訓練校に通う事のどちらが大切かは火を見るより明らかだろう。


 そこまで考えて栞菜が、アプリを閉じてシャワーを浴びようとした時だった。


『ダイレクトメッセージが届いています!』


 iPhoneのデイスプレイを見て「えっ?」と声が出てしまう栞菜。既に届いているDMではなく、リアルタイムで送られたDM。

 チャットしながらソウにDMを送る。

 そんな事をするメンバーは一人しか心当たりはない。


 届いたDMを開くと予想通り相手はとうふだった。

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