「第4章 ソウ」(3-5)
(3-5)
兄を見送り終わった栞菜は、東京駅構内を彷徨って目に入った蕎麦屋に入った。
そこで天ざる蕎麦を注文する。クラブハウスサンドを食べた直後は、胃が重かったのに注文した天ざる蕎麦は、抵抗なく食べられた。
食べ終えた栞菜は兄に貰った白い封筒を開けて中身を確認する。中には三万円が入っていた。一日のバイト代にしては稼ぎ過ぎだと小さく笑った。
会計を終えた栞菜は再び御茶ノ水駅まで戻り、一人暮らしをしているマンションに戻った。ドアの鍵を開けて、ワンルームの部屋に帰る。帰って来ると急に疲れがドッと波になって押し寄せて来た。靴を脱いで、玄関に座り込む。
「あぁ〜」
声を出して疲れを放出した。
放出し切って体内に残る疲れを可能な限り減らして、ゆっくりと意識して体を動かす。
洗面所で手洗い・うがいを済ませて、着替えもせずベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。ボスっと音を立ててベッドが栞菜の体を受け止める。
このベッドのスプリグも部屋の匂いも実家の部屋とは違う。まだ慣れない。
引っ越してまだ一ヶ月弱なのだから当然か。寝返りを打って天井を見上げた。
今頃、兄はまだ新幹線だろう。実家に到着するのは二十二時を過ぎるはずだ。
わざわざ遠くから今日の為に日帰りで東京に来て、妹に三万円も払って。
もしかして、兄は最初からあのアプリに決着を付ける気だったのかも知れない。
実家とは違う色の天井をぼんやりと眺めてそんな事を考えた。ぼんやりとした時間を過ごしてから、栞菜はゆっくりと起き上がる。
服を脱いでシャワーを浴びた。いつも浴びる時間より少し早いが、今日一日の疲れと汚れを早く洗い落としたかった。体を綺麗にして、冷蔵庫から500mlのアクエリアスのペットボトルを取り、デスクへ向かう。
実家の勉強机より一回り程小さいが、上京前に父とニトリに行って購入した物でダークブラウンの木製のデスクは栞菜のお気に入りだった。
デスクにMacBook Airを起動する。
大学ではレポートや講義でパソコンを使うだろうとと父が買ってくれた。
Macにしたのは、実家のパソコンがMacだったからだ。
まだ新しいそれを起動して、栞菜はSafariを立ち上げてインターネットを適当に巡回する。ニュースサイトを見てから、時折ディスプレイ右上に表示されている時計に目を向けた。
文字を読むのにも疲れたのでYouTubeを観ていた。
それにも飽きるとバッグから文庫本を取り出した。読みかけの文庫本を開いて、物語の世界に溶け込んでいく。
今読んでいるのは、中学生の頃から追いかけている作家の新刊。最初に読んでからずっと好きで実家の本棚からも全巻この部屋に持ってきている。
単行本・文庫本合わせて十冊程。それをデスクと同じダークブラウンの本棚に入れている。
男子高校生の主人公が手を振って望んだ奇跡を起こせる力を得てしまったが、誤ってクラスメイトを消してしまったお話だ。丁寧に描かれた主人公の心理描写が栞菜の心を刺激する。
ページを捲り物語が中盤まで差し掛かった時、時間を確認する。二十三時五分前だった。栞菜は文庫本に栞を挟んで閉じると、iPhoneを手にした。
時間になったので、ホーム画面からホワイトカプセル・サテライトを起動する。
とうふと兄のその後はこのアプリで追いかけられる。栞菜はいつも通り、覗き見モードでログインする。彼らの会話からDMまで確認した。
やがていつものメンバー。ビキ・とうふがログインして、二人が会話をしていた。兄のソウはまだログインしていない。もう家に帰っているはずなのにどうしたのだろう? 覗き見モードでログインしている栞菜はメンバーから視認されないので、兄からのログインを待つしかなかった。
しばらくしてソウがログインする。電話をしていて、遅くなったと説明していた。成程、電話は嘘で本当は両親と話をしていたんだろうな。他のメンバーは“ソウ”の説明を信じていたけど、栞菜だけは嘘を見破っていた。
ポーもログインして、いつものメンバーでチャットが始まっていた。彼らの会話にはどこも変化はない。栞菜はしばらく流れるチャットを目で追っていたが、「ふぅー」とため息を吐いてログアウトする。
受験勉強の原動力にした兄に対する恩は今日で全て返し終わった。
ここから先は兄が頑張る番だ。
そう結論付けると、iPhoneをデスクに置いて再び文庫本を手に取り、意識を再び物語の世界へと向けていった。
季節が春になり、風が暖かくなって桜が咲き始めると栞菜は大学生となり、講義やアルバイトで忙しくなると、入学前にあった新宿の一件は彼女の頭からすっかり消えていた。
東京の生活にもすっかり慣れて友人も出来た。
実家にも長期休みの際に帰省する程度で兄とは短く話をした。帰省の少し前に母から聞いた話によると、兄は心と体のリハビリを始めていた。休学していた大学は退学してしまったが、地元の職業訓練校に通い始めて、少しずつ前進しているとの事だった。
兄の近況を聞いて栞菜は今の今まで忘れていたあのアプリの存在を思い出した。
そこで兄とのLINEでのやり取りで、まだアプリを続けているのかと尋ねたら、もう消しているとの事だった。
元々、顔も見えないし本名も知らない不安定な繋がりだった。
色々な話が出来て感謝はしているが、これから先の自分にはもう必要がない。メンバーにはちゃんと別れを告げているから問題ない。
兄からメッセージにはそう書かれていた。
栞菜はその方がいいと返信をしておいた。
事態が動いたのは、兄とのやり取りを交わしてから、数日後の事だった。
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