「第4章 ソウ」(6-2)
(6-2)
金曜の仕事帰りの夜の事。
会社の最寄り駅のホームで、大勢の人に紛れて栞菜は電車を待っていた。
今日は二十五日で給料日で明日、明後日は休み。
社会人の給料日後の週末は学生時代の週末とは比較にならないくらい最高だ。この解放感をどれだけ味わえるかで、社会人をどれだけ続けられるかが決まる。
新卒時に会社の先輩にそう教わって、最近になってようやく分かってきた。
明日は久しぶりに映画でも観に行こうかな。最近、忙しかったし。そう考えてiPhoneで上演中の映画のラインナップを眺めていた時だった。
ホームにびゅうッと夜風が吹いて、栞菜の頬に当たる。
前髪を揺らす風に反射的に目をつむった。目を開けた時、何か懐かしい気持ちが頭に芽吹いた。
何? この気持ちは?
正体不明の感情が栞菜の心の中でモヤモヤと残る。これからせっかく最高の週末を迎えようとしているのに余計な茶々を入れられた気持ちになった。
しばらくその正体について頭を巡らせていたが、電車が到着したので並んでいた列と共に車内に入る。あいにくとシートは埋まっていてドア付近に立つ事にした。その方が良い刺激になったのか電車が発車して、少しすると栞菜は思い出した。
そうだ、ホワイトカプセル・サテライト。大学一年の時にやっていたチャットアプリ。懐かしい。なるほど、正体はこれだったのか。
今、乗っているのは中央線でもないし、降りる駅は新宿駅でも御茶ノ水駅でもない。それでも何か目に見えない小さな切掛けが重なって思い出した。
栞菜を乗せた電車は、今の最寄り駅へ到着した。
改札を抜けてガヤガヤと騒ぐ駅前を見る。焼き鳥屋の前から焦げたタレの匂いが、漂ってきて魅力的だったけど、ここで飲んで明日の午前中を潰してしまう方が勿体ないと行くのを止めた。
その代わり、書店に入って小説コーナーやコミックコーナーをうろうろして、好きな作家の新刊と漫画を一冊ずつ購入した。
書店を出て自宅マンション途中にある弁当屋で焼肉弁当を購入する。ビールは冷蔵庫に入っているので、買う必要はない。焼き鳥に負けず劣らず、良い匂いのする弁当が入ったビニール袋を持って、栞菜は自宅マンションへ向かった。
マンションに到着して、オートロックを開けて自分の部屋に入る。社会人になって落ち着いてから、引っ越した現在の住まいは1LDK。
学生の頃と違って、インテリアにこだわるようにもなった。
「ただいま〜」
玄関のドアを開けて誰もいない部屋に向かって、挨拶をする。社会人になってから、外出時と帰宅時に自然と挨拶をするようになった。リビングのテーブルに弁当を置いてから、エアコンのスイッチをオンにする。
洗面所で手洗い・うがいを済ませて、そのままシャワーを浴びた。弁当はこれぐらいの時間ならそんなに冷めないし、早く体を綺麗にしたかった。
今日一日の疲れを全て洗い流してサッパリしたら、髪を乾かして部屋着に着替える。洗面所から出て来ると、冷蔵庫からビールを取り出した。
テーブルまでの数メートルが我慢出来なくてその場でプルタブを開けた。
カシュッと気持ちいい音を立てて、今週の労をねぎらう。平日は翌日の仕事に響く為、飲まないようにしている。その方がこの瞬間を心から楽しめた。
栞菜は冷蔵庫前でビールに口を付けた。
喉を通る炭酸の忙しさとビールの苦さが体全体に染み渡った。
「あ〜、美味しい」
感想を口にして、一口分飲んだビールを片手にテーブルまで戻る。そして、焼肉弁当の蓋を開けた。リビングに焼肉の良い匂いが広がった。付属されているコチュジャンのタレをかける。
手を合わせて「いただきます」と言ってから、一週間分の労働お疲れ様という意味が込められた焼肉を口に入れる。
口いっぱいに焼肉の味が広がり、すぐに白いご飯をすくって、口へ放り込む。
「んん〜」
焼肉の味を噛み締めてビールで流す。テレビを点けてこの時間にやっているバラエティ番組に適当にチャンネルを合わせる。ハードディスクにはドラマやドキュメントが数十時間分、溜まっていた。現在、放送している番組に興味を持てなかったので、すぐにハードディスクの再生リストを選択する。
録画だけしてまだ観ていなかった番組を再生する。それを観ながら、焼肉弁当とビールを楽しんだ。
焼肉弁当を食べ終えて、再び手を合わせて「ごちそうさま」と言うと、すぐに容器をビニール袋に包んで片付ける。キッチン横のゴミ箱へ入れてから、冷蔵庫から二本目のビールを取り出した。
二本までなら今日は大丈夫。自分で定めたルールの下、二本目を半分まで飲み頬を赤くした栞菜は、ボーッとした表情でテレビを背景にiPhoneを操作していた。
やがて録画した番組を観終わると、現在やっているニュース番組へと切り換えた。金曜の夜に放送されているニュース番組を観ながらビールを飲む。
している事はもう完全に大人だった。
お酒も飲めない、働いて納税もしていない大学生では味わえない愉悦。
だけど、帰りに駅のホームで感じた懐かしい感情。
あれは逆に今ではもう味わえない。
東京の大学生活に何とか馴染もうと頑張っていた時期だ。山手線や中央線を初めとして、覚えたての東京の地理と、新しく出来た友達と楽しく遊んでいた。勉強だって凄く楽しかった。
高校の授業とは違って自分で時間割を決めて、興味がある講義を受講したり、講義毎に友人が出来たり資格を取ったりと、毎日充実していた。
あのような空気は、お酒に酔った勢いで懐かしむ事は出来ても身に纏う事は出来ない。あれから随分と年月が経ったのだ。
チャットアプリも同じで、当時のチャットメンバーの名前はもう一人だけしか思い出せない。
「ふぅ」
軽くなったビール缶をテーブルに置いて、栞菜は上を向いて息を吐く。
口から吐き出た二酸化炭素にはビールと焼肉の匂いが混ざっていた。
iPhoneを操作してApp Storeをタップ。アプリの検索項目に【ホワイトカプセル・サテライト】と入力してみる。検索を開始して少し待つと結果がすぐに出た。
結果、そんなアプリは存在しなかった。
ああ、もう存在自体がないんだ。
文字通り、影も形もなくなったあのアプリの現状を栞菜は知った。
もっとも仮に存在していたとしても“ソウ”というアカウントは兄が消してしまったので、どうこう出来る訳ではないのだが。
結局、最後の最後まで“ウソ”だったのだ。
短く自虐的に笑ってから、残っていたビールを飲み干した。赤くなった頬を冷ます為に水を飲み、洗面所で歯ブラシをしてベッドに入った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます